「紙の博物館」洋紙の聖地に息づく製紙業の変遷

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JR「王子」駅前にある「洋紙発祥の地 王子」の案内板。線路を挟んだ飛鳥山には「紙の博物館」がある

東京都北区、JR「王子」駅西の飛鳥山公園内にある「紙の博物館」。公園内には日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の史料館、北区飛鳥山博物館、紙の博物館と、「飛鳥山3つの博物館」があり、四季を通じて多くの行楽客を迎えている。

王子は我が国の用紙発祥の地として知られ、旧王子製紙の王子工場があった。紙の博物館は1950年、その跡地に太平洋戦争の空襲で唯一焼け残った同工場電気室の建物を利用して旧王子製紙が保管していた資料をベースに開設された。当初は「製紙記念館」という、いわゆる企業の記念館だった。ところが1986年、その敷地に首都高速が建設され、王子駅を挟んだ西側の飛鳥山公園内に移設された。

早期に財団法人化した製紙記念館

製紙記念館は開設されてまもなく財団法人化し、1952年には博物館法による登録博物館として認定された。第4号の登録であった。そのとき、製紙記念館は企業の記念館としてではなく、産業博物館という公共色の強い運営形態を選んだ。1953年に「製紙博物館」と改称され、1965年に現在の「紙の博物館」という名称になっている。

新築移転したのは1986年で、建築物としては古いものではない。1999年に「東京建築賞」(東京都建築士事務所協会主催)の優秀賞を受賞したが、産業遺産的な価値のあるものではない。だが、旧王子製紙がもともとも抄紙会社という名称で創業した当時、明治初期の図面が産業考古学推薦産業遺産として認定され、その後、紙の博物館の収蔵物全体が経産省の近代化産業遺産の構成遺産として認定されている。

なぜ王子の地が選ばれたのか

では、なぜ、王子が洋紙発祥の地となったのか。王子を洋紙製造の拠点として選んだのは渋沢栄一である。

渋沢は1873年、王子の地に旧王子製紙の前身である抄紙会社を設立した。抄紙とは紙をすくこと(抄紙機)であり、その用語を社名に選んだ。設立の際には、あらゆる事業を盛んにするには、人々の知識を高める書籍や新聞などの印刷物の普及が欠かせず、そのためには安価で大量印刷が可能な洋紙を製造すべきだと考え、工場の土地探しを行う。

東京中を探し回った結果、千川上水という豊富な水、交通の便、原料や製品の運搬に便利な舟運などの条件を兼ね備えた土地を得た。それが当時の王子村だった。また、東京に工場を置いたのは、水運のほかに民衆への啓蒙という目的もあった。その後1893年に、設立された土地の地名から、商号を王子製紙と改称した。

王子製紙工場では民衆への啓蒙という目的のため、早い段階で工場見学ができた。今日流行りの「工場見学」のルーツともいえる。

2020年に創設70周年を迎えた紙の博物館では、洋紙・和紙を含めて紙の歴史と産業技術を展示している。館内の「紙と産業」エリアでは、日本の近代製紙産業の歴史や紙の原料と製造工程、多様な種類・用途、環境対応への業界の取り組みなど洋紙の歴史と技術を展示。

「紙の教室」エリアでは、紙のクイズなどを通じて紙の基本とリサイクルについて知ることができる子ども向けプログラムを提供する。「和紙と文化」エリアでは、紙の誕生と伝播、古くから日本文化を支えてきた和紙の歴史や用途などを紹介している。

館内には世界最初の抄紙機(模型)や木綿ボロ(破布)と薬品を入れてパルプをつくるボロ蒸煮器、丸太を押しつけてパルプをつくるポケットグラインダーなど大型の製紙機械も展示されている。

紙もまた国家なり、「紙の王子さま」のM&A物語

紙の博物館は2021年4月現在、王子ホールディングス<3861>関連各社、紙業をはじめ約180社の維持会員の協力のもとに運営されているが、設立母体である王子製紙には、一筋縄では語り尽くせないM&Aの歴史があった。そのM&Aの意義などについては、「【日本M&A史】大企業の時代到来を告げた「三大製紙」の合併 新王子製紙の登場(4)」や「【王子HD】キーワードは「クロスボーダー」海外M&Aに力を入れるのはなぜ」なども参照いただきたい。

王子製紙はおおむね4つの世代に分けることができる。初代の王子製紙の創業は前述のとおり1873年、渋沢栄一が興した抄紙会社である。その初代王子製紙には大きな取り組みが2つある。

1つは1910年に北海道の苫小牧において苫小牧工場を操業したことだ。初代王子製紙にとって社運を賭けた北海道進出。その第1号として苫小牧工場は操業を開始し、その後、苫小牧は北海道最大規模の工業・製紙のまちとして栄えていく。王子製紙苫小牧工場は現在も市の主要産業(工場)として稼働しており、工場新設当時の建築物は経産省の近代化産業遺産に指定されている。

もう1つは王子製紙苫小牧工場の原動力となった第1から第5までの千歳発電所の建設である。初代王子製紙では1910年に完成した苫小牧工場に電力を供給するため、石狩川水系と尻別川水系に多数の水力発電所を建設した。特に積極的に開発を進めたのが、支笏湖を水源とする千歳川であった。

王子製紙だけでは建設資金が拠出できないこともあり、三井の資金援助を得た第1千歳発電所は、建設当時は認可出力が1万kWあり、日本最大級の水力発電所だった。ちなみに千歳第3発電所の取水口である千歳第3ダムは、北海道で初めて建設されたコンクリートダムである。

「鉄は国家なり」という言葉があるが、「紙もまた国家なり」である。王子製紙が行った水力発電は千歳川をはじめ、尻別川、雨竜川、朱鞠内湖など北海道各地の水力発電につながり、苫小牧工場をはじめ周辺地域の電力を支え続け、そうした水力発電の技術は他地域の産業にも伝播していった。

2012年に王子ホールディングスを発足

明治後期の1922年、王子製紙の源流の1つである富士製紙の第8工場(当時)が操業を始め、1933年に王子製紙は富士製紙と、さらにサハリン(樺太)にあった樺太工業と合併する。大正期に王子製紙は日本の紙の約8割を生産していたとされ、その規模的な大きさから「大王子製紙」と称されるようにもなった。

だが、初代王子製紙は太平洋戦争後の占領下における財閥解体政策、過度経済力集中排除法により、1949年に解体されることとなった。本州製紙、苫小牧製紙、十條製紙に分割され、このとき、王子製紙はいったん消滅する。苫小牧工場は分割された苫小牧製紙が引き継ぐことになる。初代王子製紙の清算が完了したのは1960年のことだった。

苫小牧製紙はその後、王子製紙工業、王子製紙、新王子製紙、王子製紙、王子ホールディングスと「王子」を冠する社名を守りつつ変遷を遂げる。王子製紙工業という社名になったのは1952年である。当時は初代王子製紙の清算完了前であったこともあり、「工業」の名を加えていたとされる。そして清算を終えた1960年に工業の名を外し、2代目ともいえる王子製紙に社名を変更した。

この2代目王子製紙は1993年、大手製紙会社であった神崎製紙と合併する。そのときの社名が新王子製紙だった。さらに財閥解体の際に承継先の1つであった本州製紙との合併を1996年に果たし、王子製紙となった。名実ともに3代目での社名復活である。この合併の際は新王子製紙が存続会社で社名を王子製紙に変更し、本州製紙は解散している。

合併前、本州製紙は業界第3位、新王子製紙は第2位であり、首位は十條製紙・山陽国策パルプの合併で発足した日本製紙であった。だが、新王子製紙・本州製紙の大型合併・再編により発足した王子製紙は、日本製紙を抜いて業界首位の製紙会社となった。

その3代目の王子製紙が2012年に純粋持株会社・王子ホールディングスとなり、王子製紙は王子グループにおいて新聞用紙事業や洋紙事業などを継承した傘下企業となった。いわば4代目ということができるだろう。設立直前は王子製紙分割準備株式会社であったが、持株会社制移行後は王子製紙を名乗ることになった。

洋紙発祥の地のもう1つの博物館

王子には洋紙発祥の地にふさわしい博物館がもう1つある。国立印刷局の王子工場に併設された「お札と切手の博物館」だ。

国立印刷局王子工場の歴史をたどると、明治期の1871年に印刷局(当時は紙幣司。設置後すぐに紙幣寮と改称)が設置され、1876年、近代的なお札や切手を国産化するため、王子に製紙工場を、東京・大手町に印刷工場をつくった。現在の王子工場は切手などの印刷工場となっているが、印刷局では1877年、まだ日銀が創設される前に国産第1号の近代的なお札を製造する。

記念館は1971年、紙幣司(印刷局)の創設100周年を記念して東京市ヶ谷に開設された。当時は印刷局記念館という名称だったが、2011年にお札と切手の記念館として王子に移転した。

ちなみに、貨幣の製造では大阪造幣局(大阪市北区)が有名だが、造幣局は硬貨の製造工場であり、印刷局王子工場は紙幣の製造工場であった。その偽造防止技術などは切手にも生かされ今日に至る。

文:菱田秀則(ライター)