【日本煉瓦製造】嗚呼、郷愁の赤煉瓦|産業遺産のM&A

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煉瓦資料館に展示されている各種の煉瓦

「2024年には、新1万円札の表と裏を制した!」と湧く埼玉県北部の深谷市。表面は、明治期から昭和初期にかけて500を超える会社の設立にかかわったといわれる日本資本主義の父・渋沢栄一。深谷はその生誕の地である。

そして、その裏面は東京駅。2012年に丸の内側の保存・復原工事が終わり、駅舎は生まれ変わったが、建築家・辰野金吾による重厚な煉瓦建築の偉容は変わらぬまま、JRを象徴する駅舎である。

東京駅を模したJR深谷駅(Haruka21/写真ac)

「で、新紙幣の東京駅の印刷が、なぜ深谷とかかわりがあるの?」

と思う人も、ひょっとしたらいるかもしれない。実は、深谷駅の駅舎は東京駅を模した造りになっている。深谷駅前に立てば、これぞまさに東京駅! 新紙幣、渋沢さんの裏面も“わが駅”の駅舎が印刷されていると思い、「これは、まさに深谷の商品券だ!」と、そこはかとない喜びに包まれる深谷市民の気持ちも十分に理解できる。

そして、東京駅の赤煉瓦を供給したのが、深谷市の北部・上敷免にあった日本煉瓦製造株式会社である。

日本の煉瓦建築の礎を固めた

 日本煉瓦製造は1887年、三井物産の支援を受け、渋沢栄一らが中心となって設立した。当初は国の中枢機関を1か所に集める官庁集中化政策もあり、一方で、それを可能にするには財政面の厳しさもあった。そのため、日本煉瓦製造はいわば半官半民でのスタートだった。

官とは明治政府の建設局であったが、1890年に建設局が廃止されると、日本煉瓦製造は単独事業として周辺の煉瓦工場を吸収しつつ成長していく。明治期の東京の近代化・西洋化、煉瓦建築に貢献し、1910年頃の同社最盛期には、5万坪、東京ドームの2.5個分の工場敷地に6基の窯を備え、1,000人規模の従業員が働いていたという。

今日、深谷はネギの産地としても有名だが、良質な粘土を産出する地域としても知られていた。渋沢は郷里の文字どおり“土地柄”もよく知っていた。日本煉瓦製造は地元の地主・農家から粘土の提供を受け、できるかぎりの覆土をして水田として返却したという。

数多くの煉瓦建築を可能にした日本初の専用鉄道線

日本煉瓦製造の生産した煉瓦を使用した建造物には、東京駅をはじめ、旧司法省本館、碓井峠第3橋梁、迎賓館、日本銀行旧館、東京大学、旧醸造試験場(現酒類総合研究所)などがある。

日本煉瓦製造はその発展過程において、民間企業として日本初の専用鉄道線を開通させた。創業からしばらくは工場敷地を流れる小山川から、利根川に出て海運で煉瓦を都心に運んでいた。だが、利根川の水運は河川の氾濫や洪水などにより不安定でもある。さらに、時代は鉄道輸送にとって代わるようになってきた。そこで、1895年に日本煉瓦製造は、工場と深谷駅との間、4キロほどを鉄道で結んだ。

その鉄道が使われなくなったのは1975年頃のこと。蒸気機関車からディーゼル列車へ、80年の長きにわたり、大量の煉瓦が鉄路で都心に運ばれていた。現在は鉄道の橋梁の一部が保存され、鉄路跡は遊歩道となっている。

現存する旧事務所、窯、変電室

チーゼというドイツ人煉瓦技師の居宅を兼ねていた旧事務所(煉瓦資料館)
旧事務所の傍にある変電室

日本煉瓦製造の産業遺産は、鉄道橋梁の一部のほか、旧事務所、窯、変電室などが現存する。旧事務所は1888年に建てられ、現在は煉瓦資料館として煉瓦関連資料の保存や展示を行っている。もともとは、煉瓦製造の指導にあたったチーゼというドイツ人煉瓦技師の居宅を兼ねていた建造物だ。その旧事務所の傍には小さな変電室がある。蒸気機関から電力へ切り替わる時期、1906年に市内で最初に変電設備を置いた。

現存する窯はホフマン窯6号輪窯。ホフマン窯とはドイツ人技師フリードリヒ・ホフマンが考案した窯。ちなみにホフマン輪窯は国内で4基(深谷市、栃木県野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市)が現存している。日本で最初のホフマン輪窯は明治初期、銀座煉瓦街の建設のために小菅(東京都葛飾区)につくられたものだという。

現在は修復のためプレハブに覆われ立入りできないホフマン窯6号輪窯

日本煉瓦製造のホフマン窯6号輪窯の建造は1907年。窯は長さ56.6メートル、幅20メートル、高さ3.3メートルあり、「バスが何台も停車できそうな広さです」(煉瓦資料館)とのこと。もともとの輪窯は3階建ての木造覆屋で覆われ、2階は投炭と乾燥、3階は乾燥に使われていた。内部を18の部屋に分け、窯詰・予熱・焼成・冷却・窯出しの工程を約半月かけて窯を一周させて月産65万個の煉瓦を次々と産出していた。

煉瓦建築は明治期、まさに近代化・西洋建築の象徴のように人々の目に映った。だが、1923年の関東大震災以降、日本の煉瓦建築は急速にその需要を減らしていった。大震災で木造家屋が焼失した焼け野原で、一際うずたかく積まれて残る煉瓦の瓦礫。その様相を見ると、多くの人は煉瓦の時代はやがて終焉を迎え、鉄とセメントの時代がやってくることを実感しただろう。

埼玉が生んだ、もう1つの名家

埼玉県には、渋沢家とともに日本を代表するもう1つの名家がある。諸井家。なかでもその11代当主で秩父セメントの創業者である諸井恒平は「セメント王」と呼ばれ、大正・昭和の日本経済の発展に寄与した人物として知られている。

諸井恒平は1862年、深谷に隣接する現在の埼玉県本庄市に生まれた。渋沢栄一の親戚筋にあたり、県北の地場産業である養蚕に従事したのち日本煉瓦製造に入社、専務取締役として経営の舵をとり、東京毛織、武相水電、北陸水電など地元産業や電力という基幹産業の経営に携わる。1897年には秩父鉄道の設立にも加わっている。秩父の武甲山の石灰岩に目をつけ秩父セメントを設立したのは1923年、関東大震災の起こった年のことだ。

セメント業は大震災後に激増するセメント需要に支えられ、秩父セメントを率いる諸井は秩父・熊谷・深谷・本庄などの県北地域から関東全域にわたる地歩を、まさにセメントで固めるように強固にしていった。

日本煉瓦製造に渡した引導

現在、秩父セメントはいくつかのM&Aを経て太平洋セメントとなっているが、需要減により低迷した日本煉瓦製造をM&Aにより“引き取った”のも秩父セメントである。だが、秩父セメント(太平洋セメント)の連結子会社となった日本煉瓦製造は2006年、120年の歴史に幕を閉じる。

時代の盛衰といえばそれまでだが、その終結は、隆盛を極めたのちに老いた父(日本煉瓦製造)に、「あなたの時代は終わった」と引導を渡した子(秩父セメント)の姿を感じさせた。

A4で1枚のリリースがある。2006年6月に発表された、太平洋セメントによる「連結子会社(日本煉瓦製造)の解散・清算に関するお知らせ」。

解散・清算の理由は「さまざまな経営改善策を実施しても、需要減少により再建の見込みが立たないこと」だった。清算直前の日本煉瓦製造の売上高は9億7800万円、総資産は14億5300万円。当時、太平洋セメントは日本煉瓦製造の株式の31.16%を保有し、他の太平洋セメントの連結子会社が45.48%を保有していた。常套句ではあるものの、「連結及び単体業績への影響は軽微」という言葉に、一抹の乾いた淋しさを感じた人もいただろう。

スケジュールなどの修復関連資料

2019年5月現在、日本煉瓦製造の産業遺産は、数多くの煉瓦づくりの建造物を残し「煉瓦の町」ともいわれる深谷市の運営・管理のもとで修復が進んでいる。煉瓦資料館となった旧事務所には、膨大な修復関連資料が保存されている。「修復を前に遺構を調査して初めて浮き彫りになった事実もあります」(煉瓦資料館)。

ホフマン輪窯が日本で修復されるのは栃木県野木町の窯に続いて2例目だという。果たして、どんな姿で修復されるのか。現在、ホフマン輪窯6号窯は立入り禁止となっている。

文:M&A online編集部