名村造船所大阪工場・船渠跡 アートの聖地に大変貌!|産業遺産のM&A

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名村造船所大阪工場・船渠跡地(大阪市住之江区)…今はクリエイティブセンター大阪というアート情報の発信拠点に

今年創業110周年を迎える名村造船所。佐世保重工業や函館ドックを子会社に持ち、中型船を手がける中堅造船所として知られている。同社の大阪工場・船渠跡(大阪市住之江区)は重厚長大産業の造船所には珍しく、アートというユニークな分野に活用されている。2004年に誕生した「クリエイティブセンター大阪(CCO)」という施設だ。

「造船ニッポン」の得手に帆を上げて

名村造船所大阪工場・船渠跡は大阪湾の臨海工業地帯、古くから造船の街として知られてきた住之江区北加賀屋4丁目にある。1911年、創業者・名村源之助がある鉄工所の設備を利用して造船業を始めた。1913年に名村造船鉄工所を設立した。当時は第一次世界大戦を控えて船舶需要が増大し、日本の造船業は飛躍的に成長していく途上にあった。

名村造船鉄工所は北加賀屋にあった船渠工場(工場は村尾船渠工場のもので、敷地所有者は大阪窯業というレンガ製造会社だったとされる)を1931年に買収し、株式会社名村造船所を設立する。そして、その船渠工場の敷地の一部を千島土地という不動産会社から借り受けた。千島土地は当時、北加賀屋一体の土地を所有していた地場の老舗不動産会社である。

造船不況の荒波をモロに被った大阪工場

大阪工場で中型船の製造を続けた名村造船所は、株式会社化して40余年後の1973年に操業を開始した伊万里工場(佐賀県)に生産拠点を集中させた。タンカー、バルクキャリア船など大型化する造船に対して、大阪北加賀屋、木津川河口の運河は手狭だったこともあったのだろう。

1979年には大阪工場の新造船地区を売却し、船舶の修繕事業を名村重機船渠株式会社として分社化した。だが、修繕事業の業績は奮わず、1986年に事業を清算することになった。

老舗の中堅造船所としては、1970年代のオイルショック、造船不況の荒波を乗り越え、大阪工場・船渠というかつての主力工場の活路を見いだすべくM&Aにも取り組んできた。だが、その再興は一筋縄では果たせなかった。

ちなみに、大阪工場・船渠での最後の造船は、海上保安庁の最古の巡視船といわれる「くまの」だった。

跡地、どないすんねん?

大阪工場の一部を売却し、修繕船の事業を清算した。大阪工場・船渠のうち、賃借していた敷地は千島土地に返還した。ただ、その跡地をどう有効活用するか。跡地利用の問題は残ったままだった。

1980年代後半、バブル景気の大波が押し寄せてきた頃だ。その波に乗ってしまえば、大儲けできたかもしれない。だが現実には用途の限られた工業専用地域であり、土地の転用は進まなかった。広大な敷地・船渠跡には周辺に中小企業の工場が並び、簡単には次の借り手は見つからなかったはずだ。

その後のバブル崩壊などもあり、名村造船所大阪工場・船渠跡とその活用は事実上、15年ほど休眠状態となった。

アート発信の中心地へ脱皮

そんな名村造船所大阪工場・船渠跡に目をつけたのが、アートプロデューサーの小原啓渡氏らアートの現場で活動してきたアーティスト、クリエイターたちだった。

潮に錆び、乾いた建屋が残る船渠、運河、工場跡地…。廃墟趣味といっては安直な発想かもしれないが、造船の街・北加賀屋のそこはかとない佇まいに誘われ、なにわのアーティスト、多種多様なクリエイターたちがいつしか集まった。

彼らのなかの有志はNAMURA ART MEETING実行委員会という組織を発足。船渠・工場跡地でどのような芸術活動ができるか議論を重ね、2004年に「NAMURA ART MEETING '04-'34」を開いた。2034年まで30年かけてトリム北加賀屋再生のキックオフイベントだ。

ここに名村造船所の大阪工場・船渠跡がアート活動の拠点「CCO」として復活。2005年に、さまざまな展示やイベント、大規模な見本市にも使える複合施設としてスタートした。

2007年、名村造船所大阪工場・船渠跡は「大阪市の造船関連遺産」として経済産業省が認定する近代化産業遺産群に選ばれる。2011年には芸術文化の振興に貢献した企業などに贈られる「メセナアワード2011」の大賞に、不動産会社の千島土地が選ばれた。

同社が2009年から始めた北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想、つまり、名村造船所大阪工場・船渠跡や周辺空家などの再生プロジェクトが評価された。KCV構想では、メセナ大賞受賞以後も「北加賀屋みんなのうえん」という空地に農園をつくるクリエイティブ・ファーム事業、リノベーション集合住宅「APartMENT」の竣工など、いくつもプロジェクトを進めている。

北加賀屋の老舗大家、大活躍!

千島土地という不動産会社に少し触れておきたい。同社ホームページによると、千島土地は住之江区北加賀屋に本社を置く老舗不動産会社。北加賀屋のかなりの面積の敷地を所有していた会社で、創業家である芝川家は江戸時代から大阪の豪商として知られていた。1912年に一族の所有地で賃貸業を営むために同社を設立した。

日本のゴルフ草創期からの歴史を誇る宝塚ゴルフ倶楽部の設立会員であり、関西学院大学上ヶ原キャンパス(兵庫県西宮市)の敷地も所有していた。大日本果汁株式会社(現在はアサヒホールディングス傘下のニッカウヰスキー)の設立に際して出資したことでも知られる。

また、大阪船場(大阪市中央区)にある芝川ビルは、国の登録有形文化財(建造物)に指定され、船場の産業遺産建造物群の中心的存在でもある。「北加賀屋の大家さん」といわれることもあるが、実は大阪財界の文字どおりの“地盤”を支えてきた企業の1つということもできるだろう。

港湾施設として、イベント時以外に一般客が立ち入ることはできないことがネックでもある名村造船所の大阪工場・船渠跡、CCO。だが、その再生は、地元大家の底力によって着実に実を結んできたともいえる。

千島土地の創業は名村造船所の創業とほぼ同時期である。CCOの入り口には、創業100年の歴史を刻む企業として、両社が100周年記念事業として記念展示室を設けたことを顕彰する案内板が設置されている。

文:菱田秀則(ライター)