2つのルーツを持つ「南部鉄器」の底力|産業遺産のM&A

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奥州市鋳物技術交流センターにある南部鉄器「大鉄瓶」

南部鉄器と一口にいっても、そのルーツは2つある。1つは文字どおりの南部、すなわち岩手県の南部藩、現在の盛岡市を中心とした鋳物産業の製造品だ。そして、もう1つは同じ岩手県内でも南部の水沢(奥州市)に花開いた鋳物産業である。

南部藩の鉄器を盛岡南部鉄器というなら、後者は伊達仙台藩であった水沢を中心に生まれた鉄器ということで区別し、「水沢鉄器」ということになるだろう。「南部藩の南部鉄器も岩手県南部(水沢)の南部鉄器も、どちらも“南部の鉄器”だ」と気にかけない人もいるが、「歴史が違うのだから、きちんと区別すべき」という向きもある。

両者の変遷を、主に水沢鉄器・鋳物を中心に見ていく。

盛岡南部鉄器より古くからあった水沢鉄器

盛岡南部鉄器の始まりは17世紀中頃、南部藩の盛岡で、京都から招いた釜師に茶の湯釜をつくらせたのが始まりとされている。一方、藩政時代、仙台伊達藩にあった水沢では、平安時代の後期から日用品の鋳物生産が盛んに行われていたとされる。

ともに、中国地方に次ぐ北上川流域の豊富な砂鉄産出などの鉱山資源を生かした産業である。だが、盛岡南部鉄器は藩政時代から南部藩の保護のもと発展してきたのに対し、水沢鋳物は、藩政時代からさかのぼること500年以上も前にルーツがあったことになる。

もともと水沢鋳物は、平安時代の1083年に勃発した後三年の役のあと、清原氏を圧した奥州藤原氏が近江国から鋳物師を招き、水沢周辺で鍋や釜など生活に必要な物を鋳造したことに始まるとされている。この水沢鋳物の系譜が、平安時代以降の奥州平泉文化を支えてきたともいわれる。

水沢に花開いた鋳造家、及川一族の起業家魂

平安から鎌倉、さらに室町時代となり、戦国時代、水沢の領主は葛西氏から伊達氏に変わっていった。この葛西氏のもとで鋳造技術の発展に寄与したのが千葉正頼という鋳物師だった。そして鋳造家の千葉家に、伊達氏のもとで修業を積んだのが及川喜右衛門という鋳物師だった。

この及川喜右衛門をルーツとする及川家・及川一族は長い歴史のなかで、現在の水沢鋳物産業を支えていく存在になる。一族には鋳物師として独立起業した者もいれば、法人を組織し、会社経営に進出した者もいた。

水沢鋳物は奥州市水沢の羽田地区など、主に市街北上川左岸に集積している。たとえば、1852年に創業した及川源十郎鋳造所は1947年には法人化し、及源鋳造となり、現在は本社屋内にファクトリーショップを展開するなど、業界を代表する企業に成長している。

1916年に及川精四朗・精三・七郎の兄弟が協力して、かつての鋳物の工場を復興させたのが及精鋳造所である。水沢の老舗鋳造所へ弟子入りしていた及川甚平という人物が独立を許されて1912年に創業した及甚という会社も、1952年に創立した及春鋳造所も及川家の系譜から生まれた企業である。豊富な鉄資源と技術的なスキル、経営者としての才覚。水沢鉄器・鋳物は時代の波に揉まれながら、及川一族を中心として発展を遂げ、新たな起業家を育てたり招き入れたりして、伝統産業となっていった。

日用品の水沢鉄器と嗜好品の盛岡南部鉄器

水沢鋳物は伊達藩の保護のもと、盛岡南部鉄器とは異なる発展を遂げていく。その違いは一言で述べると、生活用品の水沢鉄器と、茶の湯をはじめ趣味嗜好品の盛岡南部鉄器の違いである。水沢鉄器は鍋や釜はもちろん、戦国時代には武具も鋳造し、その技術を発展させてきた。一方の盛岡南部鉄器は、鉄瓶や湯釜などいわゆる風流な鋳物を製造し、文化を育んできたといえる。

両者が融合してきたのは江戸期に入ってからである。水沢鉄器と盛岡南部鉄器は、ともに寺社仏閣の梵鐘などにも使われるようになっていった。

明治期に入り、鉄道をはじめ交通網が徐々に東北にも敷かれるようになるにつれ、盛岡南部鉄器はもちろんのこと、水沢鉄器も販路を拡大していく。明治後期から大正期にかけて、1900年頃に水沢は東北を代表する鋳物の産地になっていった。

産業消滅の危機を乗り越え、艱難辛苦の“リスタート”

ところが昭和期には他の産業と同様に、水沢の鋳物産業も戦禍に翻弄されることになる。鉄器の日用品需要は高まるものの、戦時統制下にあっては鉄器、特に主産品である鉄瓶の製造は禁止され、鋳物師たちは軍需品の鋳物製造に従事するようになる。1942年には鋳物の伝統工芸技術を守るため、水沢でもごく限られた鋳物師だけが鉄瓶の製造に従事できるように仕向けられた。

そして戦後、水沢鉄器の鋳物師は多くが喜び勇んで鋳物製造に復帰し、鋳物産業は復活するかに思われた。だが、水沢は天災に見舞われる。1947年と1948年、相次いでカスリーン台風とアイオン台風が関東・東北地方を襲った。水沢の鋳物工場もほとんどが浸水する憂き目に遭う。

さらに1949年には水沢の鋳物産業の集積地、羽田地区が大火(羽田大火)に見舞われ、多くの工場が焼失してしまう。水沢鋳物にとって壊滅的な危機だ。終戦直後の水沢鋳物は、まさに浮きつ沈みつ、山あれば谷あり、艱難辛苦の“リスタート”となった。

業界団体の融合と「伝統的工芸品」の誕生

戦禍・災禍を乗り越えた1950年代、水沢の鋳物業者は起死回生の策に出た。1954年に水沢鋳物工業協同組合を設立し、鋳物師の交流を超えて業界団体として盛岡南部鉄器の製法を学び、日用品にとどまらない花瓶や風鈴などの鋳物を積極的に製造するようになったのである。

業界団体のつながりを簡単に振り返っておこう。盛岡南部鉄器では、1900年に南部鉄瓶業組合が設立されている。その後、戦後の業界団体は1949年6月に公布された中小企業等協同組合法に基づいて組織されていく。盛岡南部鉄器の鋳造家らは中小企業等協同組合法公布に先立ち、同年3月には南部鉄瓶商工業協同組合を設立した。それが現在の南部鉄器協同組合に続いている。

この過程で、前述のように1954年に水沢鋳物工業協同組合が設立され、1959年にはこの2つの協同組合から組織される岩手県南部鉄器協同組合連合会が発足した。このとき、伊達藩の鉄器である水沢鋳物も「南部鉄器」と呼ばれるようになった。盛岡と水沢の両者の鋳物産業の製造品をともに、南部鉄器と称するようになったのは、後三年の役以後、900年近いときを経た1950年代以降のことだといえる。

ちなみに1974年、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が公布された。そして、翌1975年に水沢鋳物も盛岡南部鉄器も、ともに南部鉄器として、国の伝統的工芸品の第1号認定を受けることになった。日本における伝統的工芸品の歴史は、このとき始まったともいえる。

文:菱田秀則(ライター)