【M&A Online特別インタビュー】
北アイルランド紛争によりプロテスタントとカトリックの対立が長く続いたイギリス・北アイルランドの首府ベルファスト。1998年に和平合意が交わされたものの、「平和の壁」と呼ばれる分離壁が街を分断し、一部の武装化した組織は若者の勧誘に余念がない。2001年にはベルファスト市北部、アードイン地区にあるホーリークロス女子小学校の子どもたちが地元のロイヤリストに通学路で脅迫される事件が起きている。
ベルファスト合意から25年。宗教的、政治的対立の記憶と分断が残る街で、哲学的思考と対話による問題解決を探っている人物がいる。ホーリークロス男子小学校のケヴィン・マカリーヴィー校長だ。彼の学校では「哲学」が主要科目になっており、子どもたちに「どんな意見にも価値がある」と語る。
映画『ぼくたちの哲学教室』(5月27日公開)は、ケヴィン校長の取り組みを2年間にわたって追ったドキュメンタリー作品。日本での公開に先立ち、来日したケヴィン校長に話を聞いた。
──なぜホーリークロス男子小学校で哲学の授業を始めることになったのですか
副校長の頃、スタッフや子どもにクリティカルシンキングを教えていました。教えるにあたり、何人かの研究者に学んだのですが、その中の1人、エドワード・デボノ博士によって開発された「6色ハット思考法(シックス・シンキング・ハット;Six Thinking Hats®)」は、客観的・直感的・肯定的・否定的・革新的・俯瞰的の6つの視点を色で分け、被った帽子の色に合わせた視座で物事を考えるというもの。例えば白い帽子を被っているときは客観的な、赤い帽子なら直感的な視座で物事を考えるのです。
そうこうしているうちに校長が退任し、僕が校長に昇格しました。就任の際、前校長から「哲学を(科目として)導入したらどうか」と言われました。校長にはいろいろな業務があるので、哲学を教える余裕はないかもしれないと考えましたが、今までとは違う校長になりたいと思い、最終的にはやってみようと決断しました。ですから自分から取り入れたのではなく、前任校長の勧めで始めたのです。2013年のことでした。
ただ、子どもたちだけに教えるのではなく、周囲も巻き込まないと意味がありません。そこで教員やアシスタント、保護者を対象としたトレーニング研修も始めました。僕は学校だけに止まらず、コミュニティ全体が自らを信じる力を身につけていけるようにしてきたつもりです。
──哲学の授業の中で生徒から「争い、止める、平和」という言葉が出てきたことに驚きました
僕も子どもたちの成長ぶりには何度も驚かされています。
ある時、校庭で喧嘩をしていた子がいました。その子は思慮深い子でしたが、ついついケンカがエスカレートしたようでした。そこで教師が介入しようとしたところ、その子は先生を押し退けるようにして、「大丈夫です。僕たちで話し合いますから」と言い、先生が事情を聞くと、「すみません、羽目を外したのは僕でした。思索の壁に行くので大丈夫です」と言ったそうです。
その後、思索の壁に行って、いろいろ考えたのでしょう。“あの子と喧嘩になったのは何がトリガーになったのか”、“なぜ自分は感情のコントロールができなかったのか”、“ここから学ぶべきことは何なのか”といったことが壁に書かれていました。その後、彼が「学年が上がったらメンターになって低学年の校庭に行き、子どもたちに諍いが起こったときは間に入って話を聞こうと思う」と言っていたと聞き、感動しました。
──やり取りがまるで大人のようです。小学生でも自分の感情を論理的に捉えることができるのですね
トラブルが起きたときには「君たちの感情が爆発してしまったのはなぜだと思う?」と話しかけ、「脳の大脳辺縁系が活発になって前頭前野が支配されてしまうと感情のコントロールが効かなくなり、感情に突き動かされたまま突っ走ってしまう。君たちは辺縁系をコントロールする術を身につけなければいけない」と説明します。医学用語を使うことに驚かれますが、子どももちゃんと説明すれば、難しい言葉でも理解できるのです。
僕はこのホーリークロス男子小学校を”救命ボート”であると考えています。生徒がどん底に陥ったとき、哲学者のプラトンのこんな教えがあったとか、ソクラテスはこう言っていたということがパッと頭に浮かべば、自分で踵を返して安全なところに行ける。そういう教えをしています。
──殴られたら殴り返せと父親から教えられている生徒がいましたが、そういう父親から非難の声が上がってきたりしませんでしたか
哲学を教え始めた頃に、「お前は何様のつもりだ。ここは俺たちのコミュニティなんだ」と学校にクレームを入れてきた父親がいました。
“俺たちは俺たちで十分、プロテスタントに対して抵抗する力がある。だから余計なことをするな”という意味だと思い、その父親と膝を突き合わせて、「子どもたちは我々の未来です。哲学を通してどのように考えるべきかという術を教えています。でなければ犯罪にまみれた道を歩んでしまいますよ」と伝えました。
今では保護者も理解を示してくれつつありますが、当時、こんなやり取りをしたように記憶しています。
「お子さんに海外へ出掛けるようになってほしいですか」「もちろんだ」「でも犯罪者の道を歩んでしまったら、そんなことはできなくなりますよ。そんなことは望みませんよね?」「ああ、望まない」「誤った道を歩んでしまうと子どもはストレスや心配を抱え、誰かに傷つけられたり殺されたりするかもしれません。そんなことは望みませんよね?」「そんなことは望まない」「ではなぜ、学校の方針に反対して、子どもを誤った道に進ませようとするのですか。お子さんから将来、なぜ僕を誤った道に進ませたのかと聞かれたら、その理由を答えられますか。我々は状況を変えようとしています。一緒に変えていきましょう」と。
──作品内でご自身も若い頃は自らの拳を使って問題解決を図ろうとしていたと語っていらっしゃいました。
僕の幼少期は北アイルランド紛争の真っ只中でした。地元の街は英国軍で溢れかえっており、自宅のドアを蹴り上げられたり、寝ているところをベッドから引きずり下ろされたりしました。
父はいきなり連行され、半年間、連絡も取れなかったのです。ですから、若い頃は“強い男であることがベルファストで生き残るための手段”だと思い、自分自身や大切な人を腕力で守っていました。
しかし、女手一つで子育てをしてくれた母が「民兵にならないでほしい。自ら学んでここから出なさい」と何度も教育の大事さを説いてくれました。それで僕は教師の道を選んだのです。親戚の中で教育者になった人はほかにいないので、家族は驚きましたけれどね。
僕はこれまで人が精神的にも肉体的にも傷つけられるところを何度も見てきました。今の子どもたちにそんな体験を味わってほしくない。アードインを暗雲が立ち込めているような街にしないよう、一生懸命に教えています。
──哲学の授業を始めて10年が経ちましたが
10年が経過し、(これまでの取り組みに)ようやく成果をご覧いただけるようになりました。アルフィーやコナーはまさにその代表例です。2人とも7年間にわたって見守ってきましたが、その長い軌跡があった上での(成長した)姿が映し出されています。
アルフィーは最初の頃、僕に対して殴る、蹴る、噛み付く、平手打ちをするやんちゃな子でした。糖尿病を不憫に思った母親から甘やかされてきたのです。しかし小学校を卒業する頃には自分の考えを明瞭に言語化でき、自信を持つようになっていました。そして周りをリスペクトできる子になり、他の生徒の模範になっていました。
コナーには学校で哲学を教えていることを示す壁画のモデルになってもらいました。彼の母親から手紙が届いたのですが、「自分の怒りをコントロールできない子だったので、自殺することもあるのではないかと心配していましたが、お陰様でみなさんの模範となる子になりました。息子のためにご尽力くださり、本当にありがとうございました」と書かれていて、泣いてしまいました。
──中学生になったコナーが小学校に顔を見せに来ていましたね
コナーだけでなく、卒業生がみんな戻って来てくれます。立派な大人になったつもりなのでしょう、「校長先生ではなくケヴィンと呼んでいい?」と言ってくるほど親しんでくれています。
以前は卒業生を街中で見かけてもスッと視線を外されたりしていましたが、今では彼女と一緒に歩いていても「校長先生!」と向こうから声を掛けてくれ、彼らのリスペクトを感じます。それは僕が本気で付き合って来たからだと思います。
──生徒だけでなく、街の雰囲気も変わって来たのでしょうか
壁画って落書きをされたりすることが多いのですが、ホーリークロス男子小学校の壁画には何も描き込まれていません。我々が壁画に対して誇りを持っていることが何らかの抑止力となっているのではないかと思いますが、コミュニティ自体も確かに変わってきた感じがあります。
それは哲学の学びを生徒に対してだけでなく、家族やコミュニティを巻き込んでやっているからなのではないかと考えます。
まず、学校に来た保護者の先生に対する接し方が変わってきました。敬意を持って接してくれるのです。また保護者がパブに集まったとき、プラトンやソクラテス、アリストテレスについて、今まで考えたこともなかったようなことを思索して対話したりしている光景が街中で見られるようになりました。校内だけでなく、コミュニティも変えることができたという自負があります。
──最後にひとことお願いいたします
僕がやっている哲学的思索は教育委員会の承認を得ていません。なぜそこまでしてやっているのか。ベルファスト合意から25年。お互い先に進もうという約束をし、北アイルランド問題が一旦は収束し、我々は北アイルランドを明るい社会にしていこうとしていますが、まだまだ問題は残されています。どんな社会的境遇にあってもベストな教育を受けるチャンスはあるべきだと思っているので、子どもを1人として取り残さないよう最善を尽くしたいのです。これまでに50ほどの映画祭に出品して、世界各国に出掛け、“希望と平和と和平の道を歩んでいきましょう”というメッセージを発信してきました。これが実現することを切に願っています。
取材・文:堀木三紀/編集:M&A Online
<プロフィール>
校長:ケヴィン・マカリーヴィー
柔術の黒帯を持つ。エルヴィス・プレスリーが大好き。大胆不敵で、地域社会に影響を与えることに熱心な彼は、アードイン地区にとって大きな存在になっている。生徒の親たちだけでなく、麻薬の売人も、IRAの反体制派もPSNI(警察)も、みんな彼のオフィスを訪ねたことがある。かつてナイフによる攻撃やテロの脅威から生き延びた経験により「暴力に屈しないこと。さもなければ、彼らは何度もやってくる」と、何事にも正面から取り組む。若かりし頃の彼は、自らの拳で自分や親しい人々を守ってきた。強い男であることは、労働者階級のベルファストで生き残るための一つの方法であった。
時を経て、彼は激動の過去に対する恥の意識と自責の念を抱きながら毎日を過ごしている。その思いが、彼の哲学への熱意の原動力となっている。彼の探求は、生徒たちに、人生において何が起きても対処できるよう感情をコントロールし、抵抗する力を身につけさせること。哲学を道具に、過去の出来事や現在の生活、未来のあり方について、子どもたちに挑戦的な議論をさせ、どんなに些細なことでも質問するように促す。
相手がたとえ親であってもすべてを疑問に思うように勧め、自分なりの答えを導き出すよう促す。また「暴力は暴力を生み、決して止まない」との考えから、少年たちの暴力に正面から取り組む。学校中で起こるあらゆる喧嘩や口論は、ケヴィンのオフィスの外にある思索の壁に書き出されることになる。
<作品紹介>
『ぼくたちの哲学教室』
監督:ナーサ・ニ・キアナン、デクラン・マッグラ
出演:ケヴィン・マカリーヴィーとホーリークロス男子小学校の子どもたち
2021年/アイルランド・イギリス・ベルギー・フランス/英語/102分/カラー/16:9/5.1ch/ドキュメンタリー
原題:Young Plato
日本語字幕:吉田ひなこ
字幕監修:西山渓
後援:駐日アイルランド大使館/ブリティッシュ・カウンシル カトリック中央協議会 広報推薦 配給:doodler
(C)Soilsiu Films, Aisling Productions, Clin d?oeil films, Zadig Productions,MMXXI
公式サイト:https://youngplato.jp/
2023年5月27日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開