人が生きるためには「物語(ナラティブ)」が必要だ。不安や悩みを抱えたり、つらいことや悲しいことを体験したりしたとき、自己を新たに立て直し、なんとか一歩を踏み出すために、人は想像力を膨らませ、物語を再編成する。対人支援や臨床心理などの現場では、その人の“語り”に着目しながら問題解決を探る「ナラティブ・アプローチ」が実践されている。
映画『アラビアンナイト 三千年の願い』(2月23日公開)は、イスラムの説話集『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』の「アラジンと魔法のランプ」をモチーフにしている。主人公は、「物語論(ナラトロジー)」を研究している学者アリシア。あるとき彼女の前に巨大な“魔人”が現れ、「3つの願いを叶えてやる」という。
さて、あなたはどんな願いごとをするだろうか。自分の心に問いかけながら観てほしい。
古今東西の物語や神話を研究するナラトロジー=物語論の専門家アリシア(ティルダ・スウィントン)は、 講演のためトルコのイスタンブールを訪れた。
バザールの土産物屋で、青と白のらせん模様が印象的な、古ぼけたガラスの小瓶を購入する。
ホテルの部屋に戻り、瓶を洗っているとフタが外れ、中から黒い煙とともに、巨大な魔人=ジン(イドリス・エルバ)が現れた。仰天するアリシアだったが、摩訶不思議な状況をなんとか受けとめ、ジンと向き合う。
人間サイズになり、白いバスローブをまとったジンは、ツルツル頭にあごひげがあり、意外にも紳士的でやさしい雰囲気。「瓶から出してくれたお礼に、3つの願いを叶えよう」と申し出る。そうすればジンにかけられた呪いが解けて、自由の身になれるというのだ。
「願いごとはない」と断るアリシアに、ジンは3000年に及ぶ自身の物語をゆっくりと語り始める。やがてアリシアは、魔人も、さらに自らをも驚かせることになる、 ある願いごとをするのだった……。
「三つの願いを叶えてあげる」というジンに、最初は「私に欲はない。欲望の欠如は、“知の光”となりうる」と、自身が研究者たる所以を述べ、申し出をきっぱり拒否するアリシア。そのシーンを観て、えっ? 断っちゃうの? もったいない、と考える人は多いだろう。
物語論の研究者であるアリシアは、古今東西の昔話や物語では「3つの願い」を口にしたあと、たいていの主人公が不幸になり、ハッピーエンドにならないことを知っていた。
「今の生活に満足しているし、とくに運命を変えたいとも思わない」というアリシアの目をまっすぐに見据え、ジンは「何も望まないあなたは、ウソつきだ」と言い放つ。
なんとかして、アリシアの気持ちを変えなければ……と考えたジンは、これまで3000年もの間、自分が体験したことや幽閉された経緯など、時空を超えた身の上話を語りはじめる。
旧約聖書にあるソロモン王とシバの女王の物語、16世紀中頃のオスマン帝国時代の物語など、現在と過去を行ったり来たりしながら繰り広げられる、圧倒的な造形美と絢爛たる色彩美。気づけば筆者もジンのストーリーテリングの世界に夢中になっていた。
主人公の学者アリシアを演じたティルダ・スウィントンは、ジョージ・ミラー監督についてこう語っている。
「本作は、これまでのジョージの作品とはまったく違う。でも、どこか同じ雰囲気を感じる。空想というものへの意気込みを。初めて台本を読んだとき、まさにジョージの映画だと感じた。本作が突き進む道筋には、人類や社会の変化といった要素が含まれている」
鬼才・ジョージ・ミラー監督といえば、世界中を熱狂の渦に巻きこんだ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)が記憶に新しい。今作と比較すると、ちょっと毛色の異なる作品のように感じるが、これまでミラー監督が手がけた映画には、大人気のファンタジー作品がたくさんある。
たとえば、南極を舞台に皇帝ペンギンたちが歌って踊る『ハッピーフィート』シリーズや、賢い子ブタが大活躍するハートフルな物語『ベイブ/都会へ行く』など。確かにどの作品にも、ティルダが語っていた「人類や社会の変化」がベースに描かれ、「この世の中で、私たちはどう人生の物語をつむいでいくのか?」というテーマが内包されている。ミラー監督のつくり出す世界観は、観る者それぞれが想像力を膨らませ、自分の心と向き合い、対話をするための「おとぎ話」なのかもしれない。
本作が“現代の大人のためのファンタジー”たる、もっとも大きな仕掛けは、魔人として登場するジンの存在だ。魔法も使うし、瞬時に移動できるし、確かに魔人なのだが、彼の話に耳を傾けているうちに、いつしか私たちと同じように悩みや苦しみを抱えて生きる人間のように思えてしまう。
ミラー監督は、ジンについてこう語っている。
「本作に登場する魔人は、どこか脆いところがあって、人間っぽいんだ」
「彼は、現代の世界には存在し得ない存在であり、現代社会を脅威だと感じている。そして、彼が心に傷を負っているということも分かってくる。彼が苦しんできたということがね」
人生100年時代といわれるいま、長く生きるということは、楽しみや喜びが増える一方、悲しみや苦しみを数多く経験するということでもある。3000年を生きてきたジンにも、過去に折り合いをつけ、未来へ歩みを進めるために、物語の生成が必要だったのだ。
「物語が嫌いな人間はいない。映画館に行くのは、みんなと一緒に夢を見るようなものなんだ。物語に招き入れられ、その中に入り込むことができる。そして、それが良い物語ならば、映画館を出た後も頭から離れないよ」と語る、ミラー監督。
そのことば通り、ラスト・シーンの解釈やアリシアの願いの行方について、さまざまな想像が駆けめぐり、今も頭から離れない。
文:小川こころ(文筆家/文章スタジオ東京青猫ワークス代表)
『アラビアンナイト 三千年の願い』作品データ
監督・脚本・製作:ジョージ・ミラー
出演:イドリス・エルバ、ティルダ・スウィントン
【2022年|豪・米合作|英語・トルコ語|カラー|スコープサイズ|5.1ch|108分|原題:Three Thousand Years of Longing|字幕翻訳:松浦美奈|PG12】
配給:キノフィルムズ 提供:木下グループ
公式HP:https://3wishes.jp
公式Twitter:https://twitter.com/3wishes_jp
2月23日(木・祝)よりTOHOシネマズ 日比谷他にて全国公開