107階のレストランでいただく、ワインとディナー。大きなガラス窓の向こうには、ニューヨークの夜景が宝石箱のように瞬いている。2001年7月11日。初のアメリカ・ニューヨーク旅行で、筆者はワールドトレードセンター最上階の人気レストラン「ウィンドーズ・オン・ザ・ワールド」を訪れた。お酒や料理に舌鼓を打ち、会話を楽しみ、笑顔が満ちる。そこには、多くの人たちのかけがえのない未来があった。
それから2か月後の9月11日、同時多発テロという大惨事がアメリカを襲った。ワールドトレードセンターに航空機が激突し、爆発・炎上。巨大なビルが白煙や粉塵とともに崩れ落ちていく瞬間がリアルタイムにテレビで放映され、世界中を震撼させた。日本に帰国していた筆者も、そのニュースに言葉を失った。
映画『ワ―ス 命の値段』(2月23日公開)は、9.11テロの被害者・遺族約7000人に保証金を分配する、途方もない国家的事業に挑んだ人々の実話である。年齢も職種も異なる被害者たちの“値段”をどうやって算出するのか。究極の難題に挑む、社会派エンターテインメントだ。
本作は、実在の弁護士チームにそっくりであると、再現性の高さも話題となっている。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生した。未曾有の大事件の余波が広がる同月22日、政府は、被害者と遺族を救済するための「補償基金プログラム」を立ち上げる。
プログラムを束ねる特別管理人の重職に就いたのは、ワシントンD.C.の高名な弁護士ケン・ファインバーグ(マイケル・キートン)。数多くの補償問題に携わってきた“調停のプロ”だ。
ファインバーグは、彼が率いる弁護士チームとともに、独自の計算式に則って補償金額を算出する方針を打ち出すが、さまざまな事情を抱える被害者遺族の喪失感や悲しみに接するうちに、いくつもの矛盾にぶち当たる。
被害者遺族の対象者のうち80%の賛同を得ることを目標とするチームの作業は停滞し、解決策はまったく見えない。その一方、「人のいのちを何だと思っている!」「娘の命は金持ちの命と同じだ!」「そんな計算式は納得できない」とファインバーグを敵視する、プログラム反対派の活動は勢いづいていく。
プログラム申請の最終期限、2003年12月22日が刻一刻と迫るなか、苦境に立たされたファインバーグが下した大きな決断とは……。
主人公のファインバーグを演じるのは、主演とプロデューサーに『バットマン』や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などがある名優、マイケル・キートン。今作では、ファインバーグと意気投合したキートン自ら、主演とプロデュースに名乗りを上げたという。その熱意がスクリーンからビシバシ伝わってくるほど、彼の表情や言動から目が離せない。
キートン演じるファインバーグには、だれもが持っているずるいところ、恥ずかしいところ、高慢なところ、弱いところ、熱いところ、素敵なところ、かっこいいところなど、人間そのものがこれでもかと詰まっていて、他人事ではいられなくなる。
本作は、2020年サンダンス映画祭でお披露目されるや「尋常じゃなく感動的だ! ─ New York Times」と絶賛を浴びた。さらに、熱狂的な映画ファンとして知られるバラク・オバマ元大統領と妻ミシェルが創設した製作会社ハイヤー・グラウンド・プロダクションズがいち早く配給権を獲得したことも話題となった。
政府や経済界が求める合理的ルールと、多様なヒューマニズムに根ざした正義。それぞれの異なる視点がせめぎ合い、私たち観客に「人生の価値はいくら?」という問いを投げかけてくる。この問いを、あなたはどのように捉えるだろうか。
「9.11被害者保証基金プロジェクト」の特別管理人になった当初のファインバーグは、一切の例外を認めず、収入や資産をベースとした厳格な数式にこだわる、まさに“計算マシン”のような人物だった。
たとえば、「会社役員の55歳、年収75万ドル、扶養家族3人の場合は1420万ドルの補償金」、「皿洗いの25歳、年収2万3000ドル、扶養家族4人の場合は35万ドルの補償金」のように。
もしも筆者が7.11でなく、9.11にワールドトレードセンターを訪れ、被害者になっていた場合、この計算式に当てはめると……20代で社会的な貢献度も低く、有休をとってふらっと観光に訪れた外国人の私には、かなり低額の補償金しか提示されなかっただろう。
当たり前だが、私たちの人生は、数字や数式だけでは表せない。これから成し遂げようとしていた夢や希望、家族や友人たちと過ごすはずだった幸せな未来は、こんな単純な計算では算出できないはずだ。
しかし、そんな被害者遺族の声に耳を傾けず、「個々の問題ごとにルールは変えられません」「補償金は非課税なので、お得ですよ」と、ファインバーグは考えや方針を曲げようとしない。
多くの被害者遺族から賛同を得られないまま時は過ぎ、プログラムの申請期限まで、あと4か月。目標の80%には遠く及ばず、参加者は18%にとどまっていた。
本作を手がけたサラ・コランジェロ監督は、自身の興味の中心を、インタビューでこのように答えている。
「人的損失を数値として算出する合理性と、無数の個人的な悲劇による心の傷がどのようにぶつかり合うかを探りたかった」
自分のやり方に絶対的な自信を持っていた一人の男(ファインバーグ)が、さまざまな人やさまざまな問題と出会い、苦悩しながら、柔軟性や創造性を身につけ、いのちとの向き合い方を模索する。
ファインバーグの変化のプロセスや人々との関わりこそが、この映画の醍醐味であり、世の中を動かしていくためのヒントでもある。
作中で、ファインバーグと反対派の主要人物をつなぐツールとして、オペラ音楽が登場する。補償基金プログラムにおいては平行線の立場の二人だが、角度を変えれば、音楽を愛する同志として、気持ちを寄せ合うことができる。
どうやら、実在のファインバーグ弁護士は、ワシントン・ナショナル・オペラの元会長だったらしい。うーん、なんというキャパの広さ。人はだれもが多面的で、奥行きが深く、さまざまな物語をもっている、大切な存在なのだ。
文:小川こころ(文筆家/文章スタジオ東京青猫ワークス代表)/編集:M&A Online編集部
『ワース 命の値段』作品データ
監督:サラ・コランジェロ 脚本:マックス・ボレンスタイン
出演:マイケル・キートン、スタンリー・トゥッチ、エイミー・ライアン
2019年/アメリカ/英語/118分/シネスコ/カラー/5.1ch/原題:WORTH/日本語字幕:髙内朝子
提供:ギャガ、ロングライド 配給:ロングライド
公式サイト:longride.jp/worth/
公開表記:2月23日(木・祝)、TOHOシネマズ シャンテほか全国公開
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