浦安といえば鉄鋼団地や東京ディズニーランドを思い浮かべる方が多いだろう。実は50年ほど前までは漁師町として栄えていたという。その象徴ともいえる浦安魚市場が2019年3月末で閉場した。映画『浦安魚市場のこと』は浦安魚市場閉場までの1年半を追ったドキュメンタリー作品である。
「鮮魚 泉銀」三代目の森田釣竿さんと出会った歌川達人監督が浦安に移り住み、森田さんや浦安魚市場に集う人々の姿を映像化することに。歌川監督に作品に対する思いを語ってもらった。
──森田釣竿さんのキャラクターはとてもインパクトがありますね。本作は監督が森田さんに出会ったことがきっかけで制作されたとのことですが、詳しくお聞かせください。
きっかけは偶然で、三鷹連雀映画祭で見た『アナタの白子に戻り鰹』という劇映画です。森田さんは主演で、かなり変わった魚屋の役を演じていました。で、映画が終わった後に、森田さんがいきなり魚を売り始めたのです。それがすごく面白かった。普通、映画祭で魚の即売会をする人はいませんからね。それが森田さんとの出会いでした。でも、そのときはそれで終わったのです。
僕は映画が好きで映画について勉強していましたが、実は人や場所にも興味がある。北海道出身で、親戚が釧路の魚市場で働いていたので、魚市場には行ったことがありましたから、浦安魚市場にも行ってみました。薄暗い中、たくさんの人が出入りしていて、いろんな会話が繰り広げられている。そこに森田さんがいて、威勢よく商売をしているのを見て、すごく魅かれるものを感じたのです。
──映画では「鮮魚 泉銀」三代目の森田釣竿さんとその家族を中心に、浦安魚市場で働く人たちを映し出します。かなり密着されていましたが、どのようにして人間関係を紡いでいかれましたか。
僕はテレビで取材のある仕事をやっていましたが、そのときは事前に日時と内容を決め、お互いにある程度、準備した上で取材していました。それはそれで効率よく撮れていいのですが、今回は時間をたっぷり掛けて、お客さんと魚屋さんの会話、魚屋さん同士の会話を密着して撮りたい。
しかし、魚市場の方々は本気で取り組んでいらっしゃるのだから、そのそばでずっとカメラを回していたら営業に支障が出る。上辺だけで映画撮影の意義を伝えるよりも、何度も通って時間を共有して、「あの人は本気だな」とわかってもらうことが大事だと考えました。
それまで東京の練馬に住んでいましたから、始発に乗っても魚市場の開店時間には間に合わない。撮影が始まってすぐに、思い切って浦安魚市場のそばに引っ越して、撮影がないときも魚市場へ買い物に行ったのです。そういう形で1年以上関わって人間関係を築いていきました。とはいえ取材を受けるのはやっぱり大変です。撮影させてくださった森田さんを始めとして、「池八」のおばあさんや「さつまや焼蛤本舗」のおばあさん、そして浦安魚市場のみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。
──浦安魚市場は朝4時開場ですから、東京からでは始発に乗っても間に合いませんね。どんな方々が魚市場に買いに来るのでしょうか。
まずは軽トラで行商している方ですね。そういった方々は朝がものすごく早いので、実際には4時よりも早く開けていたようです。それが落ち着くと鮮魚店や飲食店を営んでいらっしゃる方が仕入れに来ていたと聞いています。12時に閉まるので、一般のお客さん以上に、飲食店や業者の方々にも必要とされていた市場だったようです。
──魚市場閉場が行商や飲食店の方々へ与えた影響は大きかったのではないでしょうか。
魚市場に行くとみんなお喋りしています。地縁の拠点みたいな役割も担っていた部分もあったのです。魚市場が閉場し、コロナ禍でお祭りなどのイベントもできなくなり、「今、あの人、何をしているのかしら?」という言葉を聞くと、魚市場が閉場したことで、その存在意義が顕在化したのを感じました。
──作品の方向性はどの段階で意識されましたか。
撮る前はあまり考えないようにし、まずは撮ることから始めてみました。
魚市場にはセリをするところとしないところがあります。浦安魚市場だけを撮っているうちに、他との違いが見えてこないことに気がつきました。作品としての立ち位置も見え辛い。森田さんは築地市場や豊洲新市場から仕入れていたので、そういう場所も撮りに行き、浦安魚市場がどこから仕入れているのかというレベルまで見せ、浦安魚市場を多角的にしっかり撮っていきました。
僕の撮り方はダイレクトシネマという方法論と近しいです。ドキュメンタリー映画の一形式で、撮影と同時に録音もして、ナレーションを入れず、事実をそのまま伝えることを目ざします。僕が何を見ているかがどんどん映っていくので、それでも個性が出てしまうのですが。
浦安魚市場が閉場することは、撮影を始めてしばらくしてから発表があって知りました。最後の日に向けて、あまり誇張しすぎず、ありのままの様子を映像として残したいと思いながら撮っていました。
──過去の映像も使われていて、浦安がかつて漁業の町であったことが視覚的にも理解できました。
浦安は元々、漁師町で、獲れた魚を売っている人が集まって、組合を構成し、市場ができました。しかし工場汚染水の影響で漁ができなくなり、漁業権を放棄し、海を埋め立てて、鉄鋼団地が建ち、ディズニーランドが作られました。
それに伴い、ベッドタウンとして人口が増え、行政的には潤い、人がますますたくさん住むようになった。そういう歴史を知ると浦安魚市場の見え方も違ってくる。偶然、過去の資料をお借りすることができて、今の形になりました。
──森田さんがお子さんたちにクジラの解体作業を見せていました。クジラという食文化を子どもたちに伝えたい森田さんの親心を感じました。
夜中に森田さんから「クジラが上がったから見に行くよ」と連絡をもらって、前情報がないまま行ったのですが、撮りながら「これは凄い」と思いました。汗水垂らして働いている人たちがそこにいたのです。
僕はこの作品を撮る前にカンボジアに長く滞在して作品を撮っていました。カンボジアは鶏をその場で絞めてカレーに入れるように、生き物をその場で殺して食べることが普通に行われています。しかし、日本に住んでいると、屠殺の場面や魚を捌く様子を見る機会がほとんどありません。そういう要素をこの作品には取り入れています。
例えば森田さんがサメの頭をばーんと切っていました。荒々しくて生々しい場面でしたが、“こうやって命をいただいて食べているんだ”ということが繋がると地に足がついた感じで、いろいろ広がってきます。映画で見せているのはクジラや魚ですが、豚も牛もやっていることは同じ。見た人がどう思うかは人それぞれ。魚を捌くシーンは大事なのではないかと思って入れました。
──森田さんのお子さんたちがお店の手伝いをしていました。最近は親の仕事を見せる機会がなかなかないので、それができるのはとても貴重なことですね。
まったく気を使わない感じがよかったですよね。自分の楽しさ、興味で魚市場を動き回り、他所のお店に入り込んで可愛がってもらっていたりする。そういうのを見ているとみんな楽しそうなんですよ。
自分は勤め人の家の子だったので、学校に行き、部活をし、家に帰る。たまに誰か友だちの家に行くくらい。森田さんのお子さんは魚市場に行き、お店で宿題をする。育ち方が全然違う。いろんな人生があるなと思いました。
──浦安魚市場閉場のときは涙する森田さんに娘さんがティッシュを渡していました。お子さんたちは父親の気持ちをどう受け止めていましたか。
今はまだわかっていないようでした。おばあちゃんが孫に「見納めだよ」と涙ぐみながら話しかけていたときも、きょとんとしていましたから。多分、年齢があがっていくにつれて、話を聞いたり、映像や写真を見たりすることで「お父さんってここでこういう風にがんばっていたんだ」とか「ここでこういうことがあったんだ」とわかるようになるのではないかと思います。映画に限らず、何かしらの形で浦安魚市場が残っていれば、彼らも振り返りができる。自分は映像を撮る仕事をしていますが、記録を残せるというのはいい仕事だなと思いました。
── 一方で、森田さんのお母様はこみ上げる思いに涙していました。
年末大売り出しは本当にたくさんの人が買い物にきていました。お店の人もそれぞれに年末やお正月らしい音楽を流し、いつもと違う装飾をするといった工夫を凝らして、まるで祭りのよう。買うつもりがなかったものを、つい買ってしまう雰囲気もあって(笑)、とても楽しい場所になっていました。
それを見て、森田さんのお母さんが泣いている。これは撮らなくてはと思いました。ただ、撮っているときは“次は何を撮ろう”ということも考えていますし、画面が小さいので、こちらもいっぱい、いっぱい。編集の段階でやっと、ゆっくり画面を見ながら考える余裕ができたのですが、森田さんのお母さんのような気持ちは多かれ少なかれ、みんなが経験したことがあるのではないでしょうか。例えば僕は映画が好きだから、通っていた映画館が閉館してしまったときの気持ちとダブりました。
──岩手県宮古市にある宮古市魚菜市場のリニューアルイベントに参加した森田さんが、リニューアルをうらやましいといっていました。リニューアルができた宮古市とできなかった浦安市。何が違っていたのだと思いますか。
比較は難しいですね。映画に映っているのは魚市場のそばだけですが、浦安全体で見るとベッドタウン的なところが多い。住んでいたのでわかります。
一方、宮古市は漁業や自然が生活と結びついている度合いが浦安よりも強い。その違いを宮古市に行って痛感しました。実は撮影が終わった後、実景を撮りにひとりでもう一回宮古市に行ったのですが、イベントをやっていたスペースにゴザを敷いて、おばあちゃんたちが自分たちで作った野菜を売ったりしていました。そういう場所作りもされているのです。
野菜を売るだけではなく、そこでみんなと話をするために集まっている感じでした。商いの儲かる、儲からないの数字以上のものがあるので、宮古市の魚菜市場はあったほうがいいとなったのかなと想像してしまいます。
──浦安魚市場の跡地には、現在高層マンションが建ち、1階にはスーパーが入ったようですが、行かれたことはありますか。
風景がすっかり変わっていて驚きました。まず明るさが違う。魚市場のときは夜中から正午まででしたから、夜の時間帯は閉まっていて暗かったのですが、今はスーパーなので時間に関係なく明るいのです。人の動きも大分違っていました。
──読者に向けてひとことお願いいたします。
働くということはどんなことなのか。それについて議論されるべきだし、変わっていくときだと思いますが、数字の上だけで進んでいくのではなく、実際に働いている人や環境について知ってほしい。そういう意味で、この作品には生な部分が映っていると思います。この作品を見て、働いている人がいる上でどうやったら変わっていけるかという議論になればいいなと思います。
また作品をご覧になられたご年配の何人もの方から“自分にも似たような経験がある”と言われました。どこか自分の大切な場所がなくなってしまった経験は人生経験を重ねた方ほど多い。そういうことに引き付けて、何か感じていただければと思います。
取材・文:堀木三紀(映画ライター/日本映画ペンクラブ会員)
<歌川達人監督プロフィール>
1990 年 10 月 6 日生まれ、北海道出身。映像作家。主にドキュメンタリーのフィールドで活動する。立命館大学映像学部卒業後、フリーランスとして NHK 番組や CM、映画の現場で働く。初監督ドキュメンタリー『カンボジアの染織物』がカンボジア、スペイン、ブラジルで上映され、ギリシャの Beyond The Borders International Documentary Festival 2018 コンペティション部門審査員特別賞を受賞。中編『東京 2018 プノンペン』が Festival/Tokyo18 にて展示上映。短編『時と場の彫刻』がロッテルダム国際映画祭 2020、Japan Cuts 2020 などで上映。日本映画業界の「ジェンダーギャップ・労働環境・若手人材不足」を検証し、課題解決するために調査および提言を行う非営利型の一般社団法人 Japanese Film Project 代表理事も務める。
<あらすじ>
魚屋の活きのよい掛け声。貝を剥き続ける年老いた女性。年末のお客たちとお店の賑わい。古くから漁師町だった浦安には魚市場があった。工場汚染水の影響で漁業権を放棄し埋立地となった浦安にとって、魚市場が漁村だった町のシンボルでもある。そんな魚市場には、昼は町の魚屋、夜はロックバンド“漁港”のボーカルとして活動する森田釣竿がいた。
時代の流れと共に変わっていく魚の流通と消費の形。脈々とつながってきた暮らしを謳歌する浦安の人々。しかし、その瞬間は、緩やかに、そして突然訪れる・・・
<作品データ>
タイトル:『浦安魚市場のこと』
監督・撮影・録音・編集・製作:歌川達人
編集:秦岳志
整音:山本タカアキ
カラリスト:田巻源太(Interceptor)
音楽:POSA(すぎやまたくや&紫藤佑弥)
助監督:今井真
英語字幕:Don Brown&櫻井智子
海外セールス:植山英美(ARTicle Films)
プロデューサー:長倉徳生 植山英美 歌川達人
制作:有限会社カサマフィルム ARTicle Films
配給:Song River Production
2022年 / 日本 / 98分 / 16:9 / 5.1ch / DCP /カラー
12月17日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開