いま、「ASMR」という言葉が話題になっている。「Autonomous Sensory Meridian Response」の略語で、聴覚や視覚などで生じる刺激によって引き起こされる、心地よい感覚やリラックス状態のことだ。
9月2日公開の映画『デリシュ!』は、まさに「ASMR」の極み。トントンとリズミカルに野菜を切る音、やさしいタッチで生地をこねる音、焼きあげられたタルトの艶やかさ、クツクツとスープを煮込む音、ボワッと立ち昇る炎、ジュワーッと肉の焼ける音、美しい光を放つ銀食器、彩り豊かなご馳走、人々が食する咀嚼音……。あぁ、脳内が「ASMR」に占拠されていく。
いや、アーティスティックな料理や音に騙されてはいけない。ときは1789年。美食の国・フランスでは、フランス革命とともに「食の革命」が訪れようとしていた―――。
物語の背景は、1789年、革命直前のフランス。スクリーンには、こんな解説文が登場する。
「貴族が料理によって力を誇示していた18世紀。庶民は何よりも食べることに必死だった。旅籠などが旅人に簡単な食事を出していたが、外食の機会は稀だった。皆で食事を楽しむレストランという場はまだ生まれていなかった」。
主人公は、誇り高い宮廷料理人・マンスロン。自慢の創作料理「デリシュ」にジャガイモやトリュフを使ったことで、貴族たちの反感を買ってしまう。どんなにののしられても、謝罪しなかったことから、主人である傲慢な公爵に解任され、息子と共に実家に戻ることに。
もう料理はしないと決めたマンスロンだったが、ある日、彼のもとで料理を学びたいという、謎の女性・ルイーズが訪ねてくる。はじめは「断る」「女には料理は理解できん」と冷たい態度をとっていたが、彼女のまっすぐな想いに触れるうちに料理への情熱を取り戻し、弟子になることを認める。
やがて二人は世界で初めて、庶民のために開かれたレストランを営むことになる。店はたちまち評判となり、公爵にその存在を知られてしまう……。
まず、気になるのが「なぜ貴族たちは、マンスロンの創作料理に文句をつけたのか?」という点だ。マンスロンが創作した「デリシュ」は、薄くスライスしたジャガイモとトリュフを交互に重ねて、バターたっぷりの生地に包んで焼きあげた料理。材料も作り方も見た目もかなり美味しそう。いや、絶対に美味しいはず。しかし貴族たちは、この料理を忌み嫌い、饗宴に加えたマンスロンを嘲笑し、侮辱した。
彼らのことばを要約すると、こんな感じ。「なんでオレたち貴族が、こんな下品なものを口にしなきゃいけないんだ? ジャガイモは人間の食べ物でなく、ブタのエサだ。もしかして、あんたはオレたち貴族をブタだとバカにしているのか? それならブタのマネをしてやるよ。ブーブーブーブー。ギャハハハハハ」。
この展開には、18世紀という時代背景が関わっている。当時の料理人は、決められた料理をひたすら複製することを求められ、新作メニューの発明どころか、イニシアチブはなかった。そのような中で、マンスロンが創作料理を提供したことは、不服従の罪にあたる。
さらに当時、ジャガイモやトリュフなど、地中で栽培した食べ物は、病気をもたらす悪魔の産物と考えられており、食用として認められていなかった。
労働者たちの苦労や心意気を理解せず、ひたすら傲慢で無神経な貴族たちを見ていると、ジャガイモがフランスの食生活に定着するまで、100年の歳月がかかったというのもうなずける。
息子と一緒に出戻ったマンスロンの実家は街道筋にあり、旅人が馬と共に休憩したり食事をとったりする中継所になっていた。宮廷料理人の身分をはく奪され、城から追い出されたマンスロンは、当初、未来も希望も失った、やる気ゼロの偏屈なおじさんだった。
しかし、ルイーズが弟子になったことで、少しずつ料理への情熱がよみがえり、鉛色で強面の表情には、ほんのり赤みが差して、料理人としての誇りを取り戻していく。
これまで公爵のためにふるっていた料理の腕を、庶民の胃袋を満たすために発揮するようになり、料理を味わった人々から「おいしい」「また食べにくるよ」と大評判。こうして、庶民も貴族も関係なく、だれでも気軽においしい食事が楽しめる、新たな食のスタイル=レストランが生まれたのだ。
ルイーズの正体は、本レビューでは明かさないが、彼女もまた、悲しみと失意のなかで苦しみもがいていた。「弟子になりたい」というのは真っ赤なウソで、ある目的を遂げるための口実だったが、マンスロンと一緒に過ごすうちに、彼の生き様や料理への真摯な想いに、少しずつ惹かれていく。
一緒に厨房に立ち、切ったり煮たり焼いたりしながら、美味しい料理を生み出していく作業は、二人の恋を育んでいく時間になっていた。
さあ、いよいよマンスロン一世一代のリベンジが、幕を開ける。
貴族という特権階級をいいことに、何の努力もせず、自分の頭で考えず、支えてくれる労働者たちを冷遇し、貶めてきた公爵よ、1000倍返しだ!
郊外にあるマンスロンのレストランに、美食と色事しか興味がない、のん気な風情で現れた公爵とその愛人。まさか、たくさんの一般人に囲まれながらしっぺ返しをくらうとは、考えてもいなかっただろう。なんという爽快感!
それにしても、18世紀のヨーロッパの貴族たちにとって、ステータスやお洒落の象徴だった、カールのかかった白いかつら。ほら、音楽家のバッハやモーツァルトも着用していた、アレ。時代によって、いろいろなデザインや盛り方の流行があり、なかなか興味深いアイテムだ。本作でも、貴族たちはもれなく白いかつらを着用しているが、なんと、レストランでの対決シーンでは、かつらの中身を目撃することができる。
フランス革命以降は自然の美しさが礼賛され、人工的なかつらスタイルは、徐々にすたれていったという。真の美しさは、見かけを盛ることでなく、内面を磨かなければ得られないのだ。
フランス革命とともに訪れた「食の革命」は、庶民の生活を大きく変え、ヨーロッパにおける食文化の新たな幕開けとなった。それまで一部の富裕層の特権だった調理技術や料理が、一般の人たちの暮らしに浸透し、だれもが自由に味わえるようになったのだ。
“世界初”のレストランを開業できたのは、決してマンスロン一人の偉業ではない。信頼できる仲間がいたからこそ、自分が成し遂げるべき課題に気づき、長年刷り込まれてきた慣習や概念など、さまざまなリミッターを乗り越え、革命を起こすことができたのだ。
本作のタイトルになった「デリシュ(Délicieux)」は、フランス語で「美味しい」を意味する。さて、今夜は美味しいワインとジャガイモ料理を楽しみながら、自分にはどんな革命を起こせるか、考えてみようと思う。
文:小川こころ(文筆家/文章スタジオ東京青猫ワークス代表)
<作品情報>
出演:グレゴリー・ガドゥボワ、イザベル・カレ、バンジャマン・ラベルネ、ギヨーム・ドゥ・トンケデック
プロデューサー:クリストフ・ロシニョン & フィリップ・ボエファール
脚本:エリック・ベナール、ニコラ・ブークリエフ
撮影監督:ジャン=マリー・ドルージュ
音楽:クリストフ・ジュリアン
2020/フランス・ベルギー/フランス語/シネマスコープ/5.1ch/112分/原題:DÉLICIEUX/配給:彩プロ 映倫G
https://delicieux.ayapro.ne.jp/
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