「松ヶ岡開墾場」 鶴岡のシルク産業を育てた “サムライ・インキュベーター”|産業遺産のM&A

alt
現在、敷地内に計5棟の蚕室が並ぶ松ヶ岡開墾場

山形県鶴岡市の郊外、羽黒町にある松ヶ岡開墾場。明治維新に際して庄内地域の発展を願い、約3000人の旧庄内藩士が生糸産地として開墾した北の大地だ。藩士は刀を鍬に持ち替えて開墾を進め、高橋謙吉という棟梁のもと日本最大の蚕室群をつくり上げた。その松ヶ岡開墾場を足がかりに、鶴岡は国内最北限の絹産地として発達した。

松ヶ岡開墾場と鶴岡は、今も養蚕から絹織物までの一貫工程が残る国内唯一ともいえる地である。

天災、移築などを経て150年

松ヶ岡開墾場では明治維新直後の1872年には開墾が始まり、まず旧藩士たちは桑の苗木を植え始めた。殖産興業の名のもと事業を急ピッチで進め、1877年には10棟の蚕室が建つようになった。

ところが資金が続かず、1882年には1棟だけになってしまった。その後も地道に再建は進むものの、天災や火災などによる倒壊や焼失に遭い、また移築などを経て、現存は瓦葺で通風を重視した上州島村式という様式の3階建て蚕室が5棟並んでいる。

その5棟を回ってみると、それぞれの蚕室や入り口などに異なる社名の看板・表札がついていることに気づく。

松ヶ岡開墾場は一つの会社組織として成長したわけではなく、松岡社という組合組織はつくられたものの各蚕室は所有者(企業)が異なり、また所有者が変わり、さらに、この開墾場からさまざま関連企業が誕生した。

そして、松ヶ岡開墾場から生まれた鶴岡のシルクは2017年に「サムライゆかりのシルク」として日本遺産に認定され、2021年には開墾150周年を迎えた。

成長・衰退・事業転換を進めた企業群

松ヶ岡開墾場の150年の歴史を見ると、そこは養蚕・蚕種製造の地、いわゆる生糸の産地のみならず、次々と関連企業を生むインキュベーター(ふ化器)の役割を果たし、産業クラスターであったことがわかる。

明治維新後の新政府により生糸立国という殖産興業政策に応じた旧庄内藩の鶴岡。会社としては、まず1887年に松岡製糸所という会社が創設された。松岡製糸所は設立後、事業の軸足を移しつつも発展を遂げ、現在は同県酒田市に本社を置き、航空機内装品製造や産業機械製造をメインに、130年余りの歴史を経てシルク事業も続けている松岡(1987年に改称)である。

そして1893年には絹織物産業の振興を図るための同業者団体である鶴岡絹織物会が結成され、1894年には加藤湖一という人物が酒造業者の酒釜で羽二重(平織りと呼ばれる経糸と緯糸を交互に交差させて織られた織物)の精錬を始めている。

その精錬・製織が発展し、1898年には荘内羽二重という会社が創立した。荘内羽二重は1907年に羽前織物という会社になり、第二次大戦期、軍需用の絹を織る仕事に就くことになる。また1907年には、電動式力織機を発明した齋藤外市と羽二重開拓の第一人者といわれた伊藤岩吉が鶴岡織物という会社を設立している。明治中期には織物業の機械化が進み、生産性を向上させている。特に輸出向けの羽二重の生産は隆盛を極めた。

産業組合としては、1901年には鶴岡羽二重同業組合が結成されている。鶴岡羽二重同業組合は1946年には鶴岡織物工業協同組合となり、現在も製造品の出展のほか展示事業の企画や組合企業に対する開発能力の育成など、組合事業を続けている。

1906年には、銀行業の設立をはじめ庄内地方の近代化に尽力し、鶴岡の豪商として知られる風間幸右衛門が羽前絹錬を設立した。代表には既存の織機を改良し、平田式力織機を開発した平田米吉が就いている。羽前絹錬は現在、鶴岡市の中心地である鶴ヶ岡城址公園の近く、新海町で事業を続けている。

1989年に国指定史跡に

その後、1930年代初頭の世界恐慌で生糸の価格が低下し、鶴岡のシルク産業は衰退していく。加えて第二次大戦期は19社を数えた企業・工場も軍需化の煽りを受け、鶴岡織物、羽前織物、松文産業(福井県勝山市本社の現鶴岡工場)の3社を数えるのみになった。

「もはや戦後ではない」といわれた1950年代後半には鶴岡のシルク産業も息を吹き返しつつあり、1960年に松岡蚕種という会社が設立された。ところが、1960年代後半には中国との競合が激化、輸出用羽二重に注力していた鶴岡のシルク産業は壊滅的な打撃を被った。戦後残った3社のうち、1967年には鶴岡織物が廃業、1972年には羽前織物も廃業し、松文産業の工場も絹から合繊へとシフトしていった。そして、絹織物業としては地道に事業を続けてきた松岡1社となった。

1970年代に入り、鶴岡のシルク産業は新たな事業展開を見せている。1973年には横浜本社の芳村捺染という有限会社が鶴岡に工場を設置した。さらに捺染を主業務とする東福産業株式会社が創立している。捺染とは、染料を糊に溶かした色糊を使って布に模様を描き、染料を固着した上で水洗いしてでき上がる染色技法のこと。技術のウエートが製糸や製織から染色プリントなどに多様化していった。

1989年に松ヶ岡開墾場は国指定史跡となり、その翌年、1960年に株式会社として創立し県内最後の蚕種製造所となっていた松岡蚕種という会社も操業を終えた。そして2010年に、新たなブランド「kibiso(キビソ)」をはじめ鶴岡シルクのブランド化とシルク産業の発展をめざす鶴岡シルクが創立している。

松ヶ岡開墾場を擁する鶴岡は、養蚕から製糸・製織・精練・染色プリント・縫製という絹製品の一連の技術と体制が域内にある全国でもめずらしい地域とされる。その技術を活かし、産業の発展に寄与すべく鶴岡シルクという会社は誕生した。現在、松ヶ岡開墾場の四番蚕室「シルクミライ館」内に本社と店舗を構えている。

脈々と受け継がれるサムライシルクのスピリット

1868年9月、戊辰戦争で旧庄内藩はやがて同県となる旧山形藩とも交戦し、最後まで戦い抜き、東北の諸藩のなかで最後の降伏・開城となった。旧庄内藩の藩士は、当然ながら土地の没収や藩主への厳罰を覚悟した。

ところが、官軍(新政府軍)を率いていた黒田清隆は武器・武具の接収と藩主の城外謹慎という寛大な処分で済ませた。そのときから旧庄内藩士は刀を鍬に持ち替えた。最後までともに戦った旧庄内藩酒井家への恩返しか寛大な処分で済ませた新政府軍への恩返しかは一概にはいえないが、旧庄内藩士は克己心をもって開墾に打ち込んだ。鶴岡のシルクが“サムライシルク”と呼ばれる所以である。

松ヶ岡開墾場では開墾を始めて間もない1881年に松岡社という組合組織をつくり、運営目的や規約を記した「松岡社誓約書」を作成している。その第1条には「不勉強ナル者ハ廃業者トス」と記されている。その愚直なまでの開墾スピリットが、やがて多くの企業を生み、育てていったといえるだろう。

文:菱田秀則(ライター)