【北日本銀行】創業80周年、北東北唯一の第2地銀

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東京都千代田区にある北日本銀行東京支店

2022年2月に創業80周年を迎えた岩手県の北日本銀行<8551>。「きたにほん」ではなく、「きたにっぽん」が正しい読み方で、旧相互銀行の流れを汲む北東北唯一の第2地銀である。

創業は第二次大戦下の1942年2月、岩手興産無尽という株式会社の無尽組織であった。岩手興産無尽は岩手無尽と盛岡無尽が合併して新立した無尽組織であった。

無尽組織から相互銀行を経て普銀に転換

岩手興産無尽のもとの組織のうち、岩手無尽は1911年に創業した堀合質屋という合資会社が源流であった。堀合質屋は1914年に岩手共融合資会社という組織になり、翌1915年には岩手無尽という合資会社なる。「質」を担保として預かっての金融から、無尽という「講」を組織した金融へと事業を充実させていた。そして、1920年に岩手無尽は株式会社化した。その後、1941年に興南無尽を買収し、1942年2月に岩手興産無尽となった。

一方の盛岡無尽は1914年に無尽三盟扶業会という組織からスタートし、その後、三盟無尽合資会社という組織を経て、1919年に盛岡無尽となり、1942年2月に岩手興産無尽となった。

岩手興産無尽は1950年には興産無尽に改称する。相互銀行法が制定され興産相互銀行に改称したのは、翌1951年10月のことであった。

北日本相互銀行と商号変更したのは1966年7月のこと。その後、M&Aはないが、東証第2部、第1部へと上場を果たし、事業を拡充していく。普通銀行に転換したのは、他の相銀がいっせいに普通銀行に転換した1989年2月のこと。このときから北日本銀行という行名になった。

2021年9月現在、岩手県を中心に77店舗を擁するが、東北の主要都市である宮城県仙台市をはじめ、青森県や秋田県など隣県などへも積極的に出店し、営業網を拡大している。

平成の“北の合併劇”、ご破算に終わる

かつて宮城県仙台市に德陽シティ銀行という第2地銀があった。1942年4月、宮城県内の宮城無尽、太陽無尽、東北無尽が合併し、三徳無尽として発足した銀行だった。そのM&A及び銀行の沿革は、他の第2地銀と同様の足取りを経ている。1951年には德陽相互銀行に商号変更し、東証第2部、第1部に上場を果たし、仙台近隣市の指定金融機関を受託するまでに業績を伸ばしていた。

ところが、德陽相互銀行では、簿外での保証や反社勢力の関連企業への融資など、いわゆる“乱脈融資”が行われていた。その処理が遅れ、経営は悪化していった。1989年2月、北日本銀行はもちろんのこと、全国の相互銀行が一斉に普通銀行へ転換したが、德陽相互銀行は認められず、実際に普銀転換が認められたのは1990年8月のことだった。そのときの行名が德陽シティ銀行であり、いわば、相銀から普銀への最後の転換組であった。

1994年4月のことだ。德陽シティ銀行は殖産銀行(現在のきらやか銀行、山形市)と北日本銀行との3行合併を発表した。宮城・岩手・山形の3県の第2地銀が合同した体制で、合併後の行名は平成銀行と決まっていた。ところが、この3行合併に北日本銀行が難色を示した。德陽シティ銀行が巨額の不良債権を抱えたままで、そのことに強い懸念を抱いていたからだったとされている。

結局、3行による合併は破談に終わる。そして1997年11月、德陽シティ銀行は経営破綻した。実は1997年11月は、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券と金融機関の破綻が相次いだ。日本の金融史に残る“緊急事態”だった。

最終的には德陽シティ銀行の営業は宮城県及び隣県などの地銀・信金に譲渡されたが、北日本銀行もその一部を担うこととなった。

現在の北日本銀行はこの営業譲渡もあったためか、また、東北の中核都市である宮城県仙台市で6支店を展開している。2014年には仙台市泉区に泉中央支店を開設。周辺(泉区や富ヶ谷市など)は仙台市中心部から少し離れて工業団地や大型商業施設、またベッドタウンとして宅地開発が進められてきたが、そのローン需要などを見込んでいたようだ。

そして北日本銀行は今年創業80周年を迎えた。記念キャンペーンとして対象商品の契約者に現金プレゼントや宝くじ、金利引下げなど、地域密着、地域顧客に貢献する“金融機関らしい”イベントを実施している。

 文:菱田秀則(ライター)