「川越スカラ座」 小江戸の路地裏に佇む県内最古の映画館|産業遺産のM&A

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2007年5月、いったんは休館するもNPO法人により直後に復活した川越スカラ座(埼玉県川越市)

「小江戸」と呼ばれ県民に親しまれ、休日ともなると近県からの行楽客で街中が賑わう川越のまち。その小江戸川越のシンボルともいえる「時の鐘」の東の裏手、住宅街の元町地区の一角に、昔ながらの姿をとどめた小さな映画館がある。

川越スカラ座という市内に唯一残る、埼玉県内最古の映画館だ。映画をはじめ寄席など大衆娯楽を支え続けて100年を超える歴史があり、現在もミニシアター系の映画館として根強い人気を集めている。

一力亭という寄席から松竹直営の封切館に、そして独立系の映画館に

川越スカラ座の始まりは100年以上前の明治後期の1905年、一力亭という名の寄席だった。その後、一力亭は1907年に「おいで館」という名称に変更した。さらに大正期の1921年には川越演芸館に改名。寄席だけではなく、人気活弁士による活動写真の上映も始め、大衆演芸のホールとして人気を集めた。

そして太平洋戦争の勃発した1940年に川越松竹館となる。松竹が直営の封切館として、寄席から映画館に変身させた。これが、今日の川越スカラ座の原点ということになる。

今日の「川越スカラ座」という名称になったのは、高度経済成長期の昭和30年代、1963年のことだった。以後、川越スカラ座は、松竹に限らずロードショーを上映する映画館として賑わいを見せた。

だが、時代は平成に入り、映画は徐々に斜陽の時代を迎えていく。評判の高い映画を上映する映画館にはお客が入るものの、その映画館は川越スカラ座のようなミニシアターではなく、シネコンだった。

1つの映画館に複数のスクリーンを持つシネコンは2000年代の初頭に台頭し、現在、数としては8割以上の映画館がこの形式で運営されている。川越スカラ座のようなミニシアターでは客足が遠のくまま、厳しい運営を強いられた。

そして2007年5月、川越スカラ座は閉館を迎えた。往時を知る地元映画ファンにとっては、「また1つ、スクリーンの幕が降りた」と感じたことだろう。

川越にあったもう1つの人気映画館

「また1つ……」というのは、実は川越スカラ座が閉館となる前年の2006年2月に川越の名物の1つであった「シアターホームラン」という映画館が閉館していたからである。

シアターホームランは戦後1950年から川越ホームラン劇場という名称で運営され、当初は主に松竹系の映画を上映していた。その後、東映の直営館となり、名称も川越東映劇場と変更した。だが、地元映画ファンには「ホームラン劇場」のほうが愛着もあり、1988年にシアターホームランという名称に変わった。

そのシアターホームランが2006年2月に56年の幕を下ろす。背景には映画人口の減少や後継者難などがあったようだ。最盛期には7館の映画館があり、首都圏近郊、埼玉県の映画文化を支えてきた川越。しかし、シアターホームランの閉館によって、銀座スカラ座が市内唯一の映画館となった。ちなみに、シアターホームランがあった地(川越市松江町)は三井病院の別館となっている。

閉館後すぐに再生を果たした銀座スカラ座

シアターホームランの閉館時と同じ思いはしたくない……。そう考えた地元有志はブレイグラウンドというNPO法人を設立し(2007年5月に設立認証)、募金を集め、川越スカラ座の閉館直後の2007年8月、その運営を前経営者から譲り受けた。新聞・ニュースを賑わすようなM&Aではないが、事業としては小規模な事業承継、いわゆるスモールM&Aを実施したということになるだろう。

同じ館名での再生。それだけ愛着は深かったのだろう。ミニシアター系作品の上映館、コミュニティシネマ(市民映画館)としての復活だった。2022年には復活15周年を迎えることになる。

事業としての映画館を見ると、映画館のオーナーもしくはその運営組織が映画を1本単位で買いつけ、映画館側が自由に組み合わせて上映できた時代があった。そのため、国内には個性的な編成で上映する映画館も多かった。その状況は今日、ミニシアターなどに受け継がれているが、それで採算をとるのは厳しい状況にある。

川越スカラ座の界隈は住宅地であり、往時の賑わいはまったくといってよいほど感じられないが、いまも地元映画ファンには根強い人気がある。NPO法人プレイグラウンドは川越スカラ座の運営をメインとした組織で、現在は同館の運営を通して、同館の貸しホールとしての活用など、川越市とその周辺市の住民に向けた文化活動などを行っている。

川越スカラ座は100年のときを超え、川越の大衆娯楽を支え続けている。

文:菱田秀則(ライター)