【日本M&A史】「五大電力」の成立 大衆消費社会への道を開いた電化の進展(3)

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1924年竣工の大井ダム(岐阜・恵那市)

「五大電力」の成立

 日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、1年間にわたって、月1回のペースで、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を振り返ってゆく。第3回で取り上げるのは、「五大電力」(東京電灯・東邦電力・宇治川電気・大同電力・日本電力)の成立(〜1922)である。

第一次世界大戦後 都市化の担い手となった電力会社

 1914~18(大正3~7)年の第一次世界大戦は、日本経済のあり方を大きく変えた。最大の変化は、第一次大戦前後から都市化と電化が急速に進展し、日本人の生活水準が向上して大衆消費社会の萌芽がみられるようになったことである。その意味では、この時期に日本経済が本格的に離陸し、第二次大戦後実現する「豊かな日本」へと導く成長軌道に乗るようになったとみなすことができる。

 「豊かな日本」へ向けて離陸する際に大きな意味をもったのは都市化と電化の進展であったが、電化の担い手となった電力業界では、活発な水平統合を通じて、1922年までに「五大電力」が出そろう形となった。

 「五大電力」とは、東京電灯・東邦電力・宇治川電気の小売電力会社3社と、大同電力・日本電力の卸売電力会社2社とをさす。ここでは、最終需要者向けの電気販売を主業とするものを小売電力会社とし、他の電力会社向けの電気販売を主業とするものを卸売電力会社とした。

 小売3社のうち東京電灯は関東地域に、東邦電力は中部地域と北九州地域に、宇治川電気は関西地域に、それぞれ営業基盤をおいていた。

水平統合で規模を拡大

 「五大電力」のうち最大の東京電灯は、1883(明治16)年に設立された日本最初の電力会社である。東京電灯は、1920年代半ばまでに品川電灯、横浜電気、桂川電力、猪苗代水電、京浜電力などの周辺地域の中規模電力会社を次々と合併、吸収して、企業規模を拡大した。

●東京電灯の主な買収・合併(1883年-1931年)

主な買収・合併など
1883年 日本初の電力会社として東京電灯を設立
1902年 品川電灯を買収
1905年 深川電灯と合併
1906年 八王子電灯を譲受
1914 -18年 第一次世界大戦
1917年 江戸川電気を買収
1920年 日本電灯と合併
1921年 利根発電と合併(4月)、横浜電気と合併(5月)、第二東信電気と合併(10月)
1922年 桂川電力と合併(2月)、日本水力電気と合併(10月)、烏川電力を買収(11月)
1923年 水上発電を買収(2月)、猪苗代水力電気と合併(4月)、忍野水力電気と合併(〃)
1925年 東洋モスリン 電気事業部を買収(4月)、京浜電力と合併(10月)、富士水電と合併(〃)
1926年 帝国電灯と合併
1928年 東邦電力系列の東京電力と合併、電力戦に終止符
1929年 桂川電気興業を買収(6月)、海部岬電気を買収(12月)
1931年 東京発電と合併

出典:渋沢社史データベース|東京電灯(株)『東京電灯株式会社開業五十年史』を参考に編集部作成

 東邦電力は、名古屋電灯の後身である関西電気と九州電灯鉄道との合併によって、1922(大正11)年に成立した。東邦電力の営業基盤が中部地域と北九州地域とに分かれたのは、このような成立事情によるものであった。東邦電力の母体の一つとなった九州電灯鉄道は、博多電灯軌道と九州電気との合併により誕生した。その博多電灯軌道も博多電灯と福博電気軌道の合併により発足し、九州電気も広滝水力電気を合併していた。

 大同電力もまた、木曽電気興業・日本水力・大阪送電3社の合併の結果、1921年に誕生した。このように、五大電力成立の背景には、電力業界における活発なM&Aの動きがあったと言うことができる。

 五大電力のなかでM&Aと比較的無縁であったのは、宇治川電気と日本電力である。宇治川電気は1906(明治39)年に、日本電力は1919(大正8)年に、それぞれ設立された。

東京電灯と東京電力の電力戦

 1920年代の日本では、大規模水力開発と遠距離送電とを起点として電力会社間の競争が激化した。主要な競争の舞台となったのは、電灯市場ではなく電力市場であった。それは、電力業の所轄官庁である逓信省が、電灯や小口電力については重複供給を許可せず、大口電力に限って重複供給を認める方針に転換したことが、影響していた。

 1920年代には、中部山岳地帯に大規模な水力発電所を保有し、関東・中部・関西の大都市へ遠距離送電を行う大同電力と日本電力の登場が契機となって、本州中央部で「電力戦」と呼ばれる激烈な大口電力需要家の争奪戦が展開された。そして、この「電力戦」の中心的な担い手となったのは、ほかならぬ「五大電力」であった。「五大電力」による「電力戦」は、電気料金の低下をもたらした。料金の低下を受けて、電気需要は急伸した。

 日本では、1907(明治40)年末から1931(昭和6)年末にかけて、電灯需要家数が21万から1145万へ、電灯灯数が86万から3741万へ、電灯取付電気力が3万kWから96万kWへ、急増した。また、1908年末から1931年末にかけて、電力取付装置数は3978から51万9765へ、その換算電気力は1万2752kWから379万2163kWへ、著増した。

 端的に言えば、電気市場は爆発的に拡大したのであり、日露戦後期から第一次世界大戦を経て1920年代にいたる時期は、「日本電気市場の第1の急成長期」だったと言うことができる(橘川武郎『日本電力業発展のダイナミズム』名古屋大学出版会、2004年、57頁)。なお、「日本電気市場の第2の急成長期」となったのは、1951~73年の時期である。

文:橘川 武郎(きっかわ たけお)国際大学大学院国際経営学研究科教授

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