港街・横浜の風情にしっくりと溶け込み、風格を兼ね備えたホテルがある。「ホテルニューグランド<9720>」。「ニュー」と名づけられたのにはワケがある。もともと「グランドホテル」という名称の、現在のホテルニューグランドとはつながりのない別のホテルがあり、いったんは会社は解散し閉鎖したものの、当時の面影を生かしつつ再興したからである。
最初のグランドホテルがオープンしたのは1873年。明治初期、新橋-横浜間に日本初の鉄道が開通した1年後のことだった。当時は西洋文化を積極的に学び、受け入れた時期。グランドホテルにも数多くの外国人や賓客が訪れ、ホテルも増改築を重ね、明治半ばには日本を代表するホテルに成長した。
しかし、グランドホテルはもちろん横浜も、1923年、未曾有の大災害に襲われた。関東大震災。当時の横浜市は人口約42万人で東京(市)の約220万人に比べ5分の1程度の規模の都市だったが、横浜市の住家全潰棟数は東京の約1万2000棟を凌ぐ約1万6000棟にのぼった(『広報 ぼうさい No.39 2007.5』)。当時、横浜にあった領事館もすべて崩壊したといわれている。
まさに、横浜は関東大震災の震源地。当時、外国人居留地が拡大し、外国人向け商業施設が軒を連ねた元町も外国人向けホテルの多かった山下町界隈も、瓦礫の山・焦土と化した。海辺の山下公園は関東大震災の瓦礫で埋め立て造成された公園である。
グランドホテルのオーナーは英国人だったという。居留地の社交場のマネージャーら数人が資本を拠出し、開業にこぎつけた。だが、オーナーたちは瓦礫と化した港街とホテルの惨状を目のあたりにし、その経営を続けることをあきらめたようだ。グランドホテルは創業から約50年で運営会社を解散し、ホテル事業は終止符を打った。
ところが、である。グランドホテルは横浜復興のシンボルとして、まったく別の経営陣のもと、大きな狼煙を上げた。中心になったのは当時の横浜市長・有吉忠一と地元政財界の重鎮たち。
有吉は内務官僚として知られ、いくつかの県の知事も歴任し、関東大震災直後の1925年に第10代横浜市長となった。有吉のもと、地元政財界のほか市民も加わって資金をかき集め、震災直後は“テントホテル”と揶揄されていた外国人向けホテルを蘇らせたのだ。当時、外国人向けホテルの不足は横浜にとってもまず解決すべき課題であり、復興は急ピッチで進んだ。
山下公園を正面に臨み、横浜港に面した山下町に“新生グランドホテル”が竣工・開業したのは、震災の4年ほどのちの1927年のことだった。当時の山下町には瓦礫こそかなり撤去されてはいたものの、新しい建造物がほとんどなく、まさに焼け野原のようだった。往時をしのばせるホテル、西洋建築は港街横浜の希望の星でもあった。
“新生グランドホテル”の正式名称はホテルニューグランド。横浜市民の公募によって名づけられたとされている。今から見れば「新しいグランドホテル」と極めて素朴・明快なネーミングだが、その素朴さ明快さに、地元横浜の復興と希望の思いが深く刻まれていることを感じる。
ちなみに、会社としてのホテルニューグランドの社名は「株式会社ホテル、ニューグランド」。めずらしく社名に「、」がついている。今もその社名を変わらず使用しているが、その正確な理由はわからないようだ。

ホテルニューグランドの経営の舵をとったのは実業家の井坂孝という人物だ。明治期に経営破綻した七十四銀行を整理し、受け皿となる横浜興信銀行(現横浜銀行)を設立して頭取に就いた。東京瓦斯社長、日本工業倶楽部理事長、日本経済連盟会会長、日本証券取引所総裁などを歴任した人物としても知られる。関東大震災前には横浜商工会議所会頭を務めていた。
井坂はホテルニューグランド再興にあたって、自身が代表を務めていた東海汽船出身の土井慶吉という人物を招いた。東海汽船は1886年に浅野財閥の浅野総一郎が創業。日本郵船や大阪商船(現商船三井)と並び、日本を代表する船会社であった。土井はその東海汽船のサンフランシスコ支店長として、大型船の建造はもちろん航路の開設、就航に活躍していた。「彼なら外国語はもちろん西洋の文化風習も、建造物も理解できる!」と井坂が考え、白羽の矢を立てたのも、当然の成り行きだといえるだろう。
土井はホテルニューグランドの日本人による再興にはこだわらなかったようだ。総支配人として招いたのはスイス人のアルフォンゾ・デュナン。また、料理長には同じくスイス出身で、ディナンとともに働いていたサリー・ワイルを招いた。外国に物怖じしない横浜気質といえばそれまでかもしれないが、復興を自分たちの手で! と日本人にこだわりがちな地元住民にとっては、まったく斬新な手法であったかもしれない。
西洋の支配人・料理人の手腕により、ホテルニューグランドは生粋ともいえる西洋のホテルに再興していった。当時のキャッチフレーズは「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」(ホテルニューグランド・ヒストリーより)ホテル玄関に英国風の制服を着たドアボーイを立たせたり、人力車を常駐させたりといったサービス、とかく格式が高くなりすぎるマナーを避けるような様式を重視した、まさに西洋の「お・も・て・な・し」を見せつけたのがホテルニューグランドだった。
ちなみに、ホテル料理人の人脈はいくつかの系譜があるが、そのうちニューグランド系の創始者ともいえるサリー・ワイルは日本に約20年間滞在し、 弟子たちから「スイス・パパ」と呼ばれ親しまれた。日本政府は1973年、彼の文化的業績に対して勲5等瑞宝賞を贈っている。

ホテル内は英国風の格調とパリの下町の気安さに包まれ、さらにレストランは西洋諸国の料理を自由に選べるコース以外、一品ずつのア・ラ・カルトを尊重する空間だった。そのレストランからは、シーフードドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど数々の西洋仕込みの“庶民派料理”が生まれ、日本各地に広がっていった。
また、サリーワイルらが育てていった料理人、メートルも、ホテルオークラやプリンスホテルグループなど日本の有数のホテルで活躍した。産業遺産というと多くは建造物に焦点があてられるが、こうした食文化やサービス面でもホテルニューグランドは文化の発祥地・発信源だったといえる。
ちなみに、ホテルニューグランドを設計したのは当時30代の新進気鋭の建築家であった渡辺仁である。のちに銀座の服部時計店(和光)、東京国立博物館本館などを手掛けた建築家として知られる。ホテルニューグランドに関しては、ルネサンス様式にアールデコのエッセンスを加えた建物で、堅牢な石積みも大きなアーチ窓も細かな彫刻も、高級さとともにシックな趣がある。
創業年である「1927」の数字が刻まれたエンブレムも象徴的だ。玄関を入るとすぐ石造りの大階段があり、2階をフロント・ロビーとしていたことがしのばれる。チャールズ・チャップリンも、ベーブ・ルースも、ジャン・コクトーも、ダグラス・マッカーサーも、日本を訪れた際にはホテルニューグランドに滞在した。日本人では、作家の大佛次郎もよく利用したようだ。1931年から約10年間にわたり、ホテルニューグランドは大佛の創作活動の場であった。
関東大震災から20年、ホテルニューグランドは第2次大戦からは免れた。真偽のほどは定かではないが、米軍がこのホテルを「標的からはずせ!」と指令していたからだといわれている。また、占領軍によるホテルの接収は、終戦後1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し日本が主権を回復するまで、7年間続いた。
震災と戦禍の2つの災厄を乗り越え、ホテルニューグランドは1991年に新館「ニューグランドタワー」を新築完成させ、1992年に本館は横浜市認定歴史的建造物となった。だが、ただ伝統を背負っているだけのホテル経営では、厳しさを増すホテル経営の荒波は乗り越えられないはずだ。そこでJR東日本が動き出した。
JR東日本は横浜地区の拠点形成を目的に2003年にホテルニューグランドの株式の一部を取得し、2004年には業務・資本提携も締結している(2019年11月期には3.72%の持株比率で大株主4位)。また、ホテルニューグランドはJR東日本ホテルチェーンにアソシエイトホテルとして加盟。そして、2007年には経済産業省が選んだ近代化産業遺産の認定を受けた。
ホテルニューグランドは2019年11月期で年商51億2400万円、社員約300人。売上高は業界内で第26位、従業員数では第19位(業界動向サーチ、2018-2019年)で、いわば中堅規模のホテルだが、最近では日本のクラシックホテル(9ホテル)との連携も強化。開業当時から培われたクラシックホテルの真髄は、脈々と引き継ぎつつ経営の改革を進めている。
文:M&A Online編集部