【北國銀行】北陸金融界の激震を礎に|ご当地銀行の合従連衡史

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2014年に竣工した新本店ビル。金沢の新しいビジネス街“駅西”に本拠を構えた

石川県金沢市に本店を置く北國銀行<8363>の創業は1943年。1958年には旧本店が完成し、その後2014年には新本店ビルを竣工。金沢駅西側の広岡2丁目、通称“駅西”に本拠を移した。

これまで、金沢の中心市街や金沢城、兼六園など主要な観光地・観光施設は駅の東側にあり、特に観光客や出張ビジネスマンが大規模病院や流通・工業団地などがある駅西を訪ねることはほとんどなかっただろう。ところが、2015年に北陸新幹線が金沢まで開通する前後から駅西も急速に発展し、整然としたビジネス街に変貌を遂げつつある。

その北國銀行について特筆すべきことの一つに、1943年の創業以来、自行が率先して行ったM&Aがほとんどないことが挙げられる。あえてM&Aの実績を挙げるとすれば、創業翌年の1944年に地元の石川貯蓄銀行を買収したことくらいだ。

なお、重ねて“あえて”ということで見ると、2002年には加賀信用組合と石川たばこ信用組合の事業を譲り受け、2003年には破綻した石川銀行の営業を日本承継銀行から分割して譲り受けている。

石川銀行の破綻の受け皿として

金沢文芸館となった旧石川銀行橋場支店
金沢文芸館となった旧石川銀行橋場支店

2002〜2003年にかけての北國銀行のM&Aは、破綻する北陸の金融機関の受け皿の1つとなったということである。ここで当時、20年ほど前の金融界を、北陸地方を中心に振り返っておきたい。

金融庁の設立は2000年7月。金融機関への検査・監督を担ってきた金融監督庁と、大蔵省金融企画局が統合された。日本の金融界全体に不良債権問題が大きくのしかかっていた時代。その頃、北陸金融界にも大きな荒波が襲っていた。石川銀行という地元地銀が破綻したのである。

石川銀行はもともと北陸無尽という無尽会社で、1951年に施行された相互銀行法により加州相互銀行となり、1989年に普通銀行となった、いわゆる第2地銀である。その約10年後の2000年8月に石川銀行は経営破綻した。金沢の繁華街・香林坊にあった本店は取り壊され、同じ金沢市内の橋場町にあった橋場支店は銀行建築物として保存され、今は金沢文芸館という観光施設として活用されている。

石川銀行の破綻理由は、北國銀行、北陸銀行など地元地銀に比べて県内シェアが低く、いわば経営基盤が弱いにもかかわらず、金融自由化のなかで強引な資金調達を進め、県外に貸し出したことによる。しかも、小口案件より大口案件を優先し、積極果敢に貸し込んだ。その貸出先の経営が傾くと、一挙に石川銀行の不良債権が増大する。当然のように、自己資本比率も低迷した。

石川銀行は地方銀行として国内業務基準となる自己資本比率4%を堅持すべく、関係会社などに増資の引き受けを求めた。だがそれは、融資したお金の一部を増資に充て、石川銀行株を購入してもらうという方法だった。結局、この迂回融資などがアダとなり石川銀行は債務超過に陥り、自己資本比率を大きく引き下げた。一連の融資のなかには元頭取の不正融資もあった。

石川銀行に対しては、金融機関の業務を受け継ぐ受け皿として設立された日本承継銀行を経由する破綻処理が行われた。受け皿銀行には北國銀行をはじめ北陸銀行、富山第一銀行、地元信金などがあり、それぞれに分割営業譲渡された。

当時の石川県内の金融事情を知る人からは、「頭取が不正融資事件を起こし、銀行を破綻させ、その受け皿を地元の金融機関が引き受ける。石川の金融界は本当に大丈夫なのか」といった不安もささやかれた。

創業前史の合併劇

北國銀行の話に戻そう。北國銀行は隣県の富山第一銀行、福井銀行との地銀連携(業務提携)はあるものの、創業の地・金沢で積極的なM&Aを進めることなく地盤を固め、さらに昨今の地銀再編の難局に立ち向かおうとしている。

新たなM&Aは見えてこないので、ここで、北國銀行の創業前後の金融界もあわせて振り返っておきたい。北國銀行が創業した1943年前後は第二次大戦の戦時下にあって、さまざまなM&Aが繰り広げられていた。

大銀行に目を向けると、川崎製鉄や川崎重工業として名を残す川崎財閥の中核をなす川崎銀行(第百銀行)が三菱銀行に吸収合併されたのが1943年である。戦時下にあって、三菱や三井などの財閥系金融機関がしのぎを削っていた。戦費調達のため全国各地で一県一行主義が浸透し、そのための銀行合併・集約が盛んに行われていたのだ。

その最中、北國銀行は加能合同銀行、加州銀行、能和銀行の3行合併で誕生した。いずれも、石川県内に本拠を置く銀行である。

加能合同銀行の創立は1891年。隣県・富山に本店を置く北陸銀行の前身の1つである第十二国立銀行の小松派出所(石川県小松市)を継承して創業した米谷銀行がもとである。米谷銀行は合資会社、個人経営の時代を経て株式会社となり、同じ石川県内の七尾銀行と合併し、1926年に加能合同銀行となった。「加」とは加賀であり「能」とは能登のこと。文字どおり加賀と能登が合同し、県内全域に拠点を広げていた銀行であった。

では、3行のうち加州銀行はどのような金融機関だったのか。加州銀行は1892年に第一国立銀行金沢支店の業務を継承して設立され、1917年には加賀実業銀行と合併する。その後、大正期に津幡銀行、美川銀行、鹿島銀行を次々に買収した。加賀、なかでも金沢周辺で地盤を固めた銀行だった。

能和銀行についても触れておきたい。能和銀行の創業は比較的新しく、1938年に穴水銀行、宇出津銀行、田鶴浜銀行、七尾商工銀行、能州銀行、能登銀行、能登部銀行の7行が合併して誕生した。能登地方の私立銀行が集約された銀行である。

北國銀行は3行合併で誕生したとされる。その3行には石川県内の加賀と能登、さらにその両地域を地場とする銀行であった。北國銀行は一県一行主義下で生まれた銀行ではあるが、ある銀行が別の銀行を強引に吸収したのとは少し異なる、いわば均整のとれた状態・関係で集約されて発足したといえる。

文:M&A Online編集部