「弘前れんが倉庫美術館」りんご酒とともに歩んだ百余年|産業遺産のM&A

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2020年7月、弘前市吉野町にオープンした「弘前れんが倉庫美術館」

青森県弘前市にある「弘前れんが倉庫美術館」は、2020年7月にオープンした比較的新しい美術館だ。外観はその名称のとおり煉瓦倉庫であり、弘前を知る年配の人には、「吉野町煉瓦倉庫」もしくは「旧吉井酒造煉瓦倉庫」のほうが通りがよいかもしれない。

現在、美術館棟となっている建物は1923年頃に建てられたという。建設年が確かだとすると、今年は100周年の記念すべき年。建設年からにさかのぼること40年ほど前の1880年、その敷地一帯には青森のりんご産業の育成・発展に大きく寄与した果樹園芸家の楠美冬次郎によって開設された「不換園」というりんご園があった。

りんごとともに紡いできた百余年の煉瓦倉庫の歴史を、弘前市吉野町緑地整備室が作成した資料や弘前れんが倉庫美術館の資料などを通してたどっていく。

りんご園から日本酒の醸造倉庫へ

楠美冬次郎が開設した不換園に煉瓦倉庫を建てたのは、福島藤助という明治・大正期の実業家・酒造家である。福島は20代の頃、大工から酒造業に転身し、『吉野櫻』という日本酒を弘前において製造した。弘前で『吉野櫻』といえば、“幻の銘酒”だ。

やがて福島は個人事業の福島酒造会社(のちの福島醸造)、富名醸造、陸奥製糸、北日本農園、弘前印刷など数々の企業を創業した地元の立志伝中の人物となっていく。その福島が1901年に開業した弘前電燈の重役だった頃、同社を移転する計画が持ち上がり、福島は社屋と発電所のあった跡地を譲り受けた。

その跡地には、楠美冬次郎の不換園や自宅があり、その一部を同社に譲渡していた。楠美冬次郎の育てたりんご園の土地は、実業家・酒造家の福島藤助が譲り受けたことになる。

福島がその土地、現在の吉野町に倉庫を移して酒造りを始めたのは1907年頃のことだ。才気あふれる福島は福島酒造会社を設立し、事業を拡大した。1913年には移築した倉庫のほかに醸造工場なども増設し、福島酒造会社の建物は工場・倉庫などを合わせて10棟を数え、その敷地面積は2,200坪を超えたといわれる。

福島は福島酒造会社のほかにも富名醸造を設立し、酵母の製造技術を発展させ、青森県トップの酒造量を誇る酒造家・実業家になった。1921年には弘前市街の西、紙漉沢で水力発電所の工事にも着手(1924年に完成)。1922年には個人事業の福島酒造会社を福嶋醸造として株式会社化し、1923年には新たに工場を増設した。現在の弘前れんが倉庫美術館の建物はこの頃に建造されたものとされている。

そして福島は1925年7月、心臓麻痺により急逝する。享年55歳であった。

吉野櫻からシードルへ、福島藤助から吉井勇へ

シードルという、りんごからつくったスパークリングワインがある。このシードルの生産をりんごの一大生産地・青森県で始めたのが、吉井勇という実業家・酒造家であった。吉井は1939年にりんご酒の製造免許を取得し、1945年には日本果実酒という会社を創業、その後、日本酒造工業に商号変更し、福島藤助が守り続けた『吉野櫻』ブランドを継承した。

吉井は『吉野櫻』を継承するとともに、シードルの製造を始めた。りんご酒に取り組み始めた1939〜1940年の一時期、煉瓦倉庫は弘前市に設立された御幸商会の工場として借用された。

御幸商会とは、青森県黒石市の御幸公園近くに、当時シャンパン製造に賭けた佐藤弥作と田中武男という若き醸造家が設立した御幸シャンパン商会が前身である。当時の青森・弘前ではりんご酒・ワイン・日本酒など「酒」をめぐるビジネスに若き起業家たちがしのぎを削っていたようだ。

吉井は1954年、朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)の支援を受け、朝日シードル弘前工場を設立した。福嶋醸造の倉庫・工場は福島藤助亡きあと、吉井勇率いる朝日シードル弘前工場が譲り受けた。

朝日シードル弘前工場は1960年、当時の朝日麦酒社長、山本爲三郎の依頼により、シードル事業をニッカウヰスキーに譲ることになる。このときから朝日シードル弘前工場は、ニッカウヰスキー弘前工場として操業を始めた。煉瓦倉庫は朝日シードルからニッカウヰスキーへと引き継がれた。

だが、のちにニッカウヰスキー弘前工場が移転し、1967年に朝日シードルは吉井酒造に商号を変更した。煉瓦倉庫は吉井酒造がその所有・管理を担うことになった。この煉瓦倉庫が吉野町煉瓦倉庫とともに、旧吉井酒造煉瓦倉庫と呼ばれる由縁である。

1975年には煉瓦倉庫の一部を取り壊すとともに、棟を合体させた。現在の弘前れんが倉庫美術館の原型となるものの、特段の積極的な用途を見いだせないままの時期が続いた。1978年から1997年頃までの約20年間、煉瓦倉庫は、政府備蓄米の保管用に使われたという。食糧庁指定の臨時倉庫という位置づけであった。

醸造から創造へ、幾重にも重なる再生への動き

この政府備蓄米保管用倉庫とされていた時期、吉野町煉瓦倉庫の再生を願う動きが高まっていた。1988年には「煉瓦館再生の会」が設立され、「版画美術館にしよう」という声も上がっていた。弘前は創作版画の祖といわれる今純三、今年生誕120年を迎えた棟方志功の故郷。その後も多くの版画家を輩出した“版画のまち”でもある。その流れを汲む版画界の機運もあったのだろう。

1990年代から2000年代にかけて、吉野町煉瓦倉庫の再生は二転三転する。弘前市としては「吉野町煉瓦倉庫設置構想」の検討を1994年に始めるものの、2001年には倉庫取得を一時断念している。また、自治体レベルの構想だけでなく、市民がワークショップ形式で活用法を構想する動きも出てきた。

幾重にも折り重なる再生の機運が高まるさなかの2002年、再生に向けた一筋の強い光が差し込んできた。「吉井櫻」を受け継ぎ、煉瓦倉庫を所有・管理していた吉井酒造の当時の社長と弘前市出身で現代美術作家として活躍する奈良美智氏が意気投合し「美術館としての再生」がにわかに現実味を帯びてきたのである。

奈良は「A to Z Memorial Dog」という造形物を弘前市に寄贈し、煉瓦倉庫のある吉野町緑地に設置した。弘前市では煉瓦倉庫の土地・建物をあらためて取得し、「弘前市吉野町煉瓦倉庫・緑地整備検討委員会」を組織した。

吉野町緑地と煉瓦倉庫の本格的な整備が動き始めた。2018年には改修工事に着手し、煉瓦倉庫は弘前れんが倉庫美術館として再生し、2020年7月、開業した。

りんご園、日本酒醸造倉庫、シードル倉庫などと民間による譲渡が続き、やがて政府備蓄米保管庫と市の所有施設など、さまざまな役割を担いながら醸造から創造へ、美術館として再生したのである。

文:菱田 秀則(ライター)