【林源十郎商店】倉敷に花開いた医薬の精神|産業遺産のM&A

alt
林源十郎商店の本館2階にある林源十郎商店記念室。健康・福祉の発展に貢献した偉業を顕彰する
多くの観光客を迎える倉敷美観地区(岡山県倉敷市)

白壁の蔵が連なる街並みと倉敷川を行き交う小舟。倉敷の静謐かつ瀟洒な街並みは日本を代表する美観地区として名を馳せ、多くの観光客を迎えてきた。歴史的建造物である木造3階建ての本館や母屋、離れ、蔵の4棟からなる複合商業施設「林源十郎商店」はその倉敷美観地区の一角にある。

複合商業施設としてのオープンは2012年3月。「倉敷生活デザインマーケット」を標榜し、「豊かな暮らし」を探求する衣・食・住に関わる8店舗が入居している。地元・倉敷をはじめ全国で活躍するデザイナーが手がけた生活雑貨などの店舗が入居し、企画展やワークショップも開催され、お洒落なカフェレストランで喫茶やランチを楽しむこともできる。

ゆっくりとショッピングを楽しめば、つい時間が経つのも忘れてしまう。ほかにも見どころの多い倉敷の街だけに、「他のお店や観光施設などを回る時間がなくなってしまった!」と贅沢な思いを抱く観光客もいるはずだ。

 紡績の街に生まれ育まれてきた医薬のスピリッツ

壁一面を占める江戸時代の薬箪笥

複合商業施設としての林源十郎商店のスタートは2012年3月だが、実はもともとの林源十郎商店は1657年、同地に林半右衛門由儀が「紀伊国屋」という名称で創業した薬種業にさかのぼる。林源十郎商店の本館2階にある林源十郎商店記念室。創業の頃からの歴史、特に林家の8代当主である林孚一、11代当主である林源十郎の偉業を写真パネルなどによって顕彰する施設である。歴史の記念施設といっても大規模なものではない。蔵を模した本館のコーナーにある展示スペースである。蔵にあった江戸時代の薬箪笥をはじめ、製造していた薬などの展示品も目を引く。

現在の商業施設名を薬種業であった社名と同じ林源十郎商店としたのは、倉敷市がまだ村であった明治期から健康・福祉に尽くしてきた林源十郎の精神に学び、今後ともその精神を今日の暮らしに生かす意図が込められている。

本館に向かって右側の細い路地に入ると、小規模ながら重厚な自然石の石碑がある。「林源十郎商店発祥の地」と記され、林源十郎商店の社名・組織形態の変遷が刻まれている。倉敷のこの地で江戸期から、たとえ社名・組織形態が変わったとしても営々と薬種業が営まれてきたことがわかる。

2013年に設置された石碑

本館の屋上に昇ってみると、倉敷美観地区の落ち着いた街並みが一望できる。多くの人は、倉敷を代表する会社というとまず倉敷紡績(クラボウ)が頭に浮かぶかもしれない。だが、屋上から白壁・瓦屋根の町並みを眺めていると、倉敷が薬種の街でもあった往時の姿に思いを寄せることができるだろう。

紀伊国屋からエバルスへ

紀伊国屋という名称で開業した林源十郎商店は1715年には大坂屋に改称する。林源十郎商店と改称したのは1892年(株式会社化は1950年)。幕末から明治にかけて倉敷の林家の代々当主は貧しい人々を救済しながら倉敷の街を育てる原動力となっていたが、11代当主の林源十郎は、キリスト教会の支援などにも尽くしたという。

大原美術館の創設者であり倉敷紡績の創業家一族でもある大原孫三郎のほか、岡山孤児院の創設者として知られ「児童福祉の父」と称される石井十次らとの親交も深め、地域への社会貢献・福祉の精神に根ざした倉敷の街づくりを実践してきたという。

林源十郎商店は昭和期に入り、高度経済成長の中で林薬品株式会社と称する組織変更を行った。1964年のことだ。ただ、ここまでは、いわば薬種業としての林源十郎商店の“内輪の事業承継M&A”ということができる。ところが、平成に入り、医薬・製薬業界の各社は大きなM&Aの荒波に揉まれていく。林源十郎商店(林薬品)は1997年に広島市に本社を置くオーク薬品と合併し、現在はエバルスという大手医薬品卸売業に変ぼうしている。

巨大医薬業界の一翼として

エバルスは、後述するメディパルホールディングス(HD)というグループの1社で、広島市中区と岡山市北区の2本社制を採用している医薬品・医療機器の卸売会社。現在は中国地方全域で事業展開している。前述のように、1997年にオーク薬品と合併した際に林薬品はエバルスと社名変更した。

余談になるが、2003年に広島市内にあるエバルスの倉庫に隕石が落ち、「広島隕石」と呼ばれたことが記憶にある人もいるだろう。そのエバルスは広島隕石の翌2004年、医療用医薬品等卸売、化粧品・日用品、一般用医薬品卸売、動物用医薬品・食品加工原材料等卸売など医薬の分野で多角的に事業を展開する持ち株会社メディパルHD<7459>の一員となった。

業界大再編の荒波

ここで、メディパルHDのM&A史を少し振り返っておこう。創業は明治期の1898年にさかのぼるが、株式会社としては1923年5月に設立された三星堂という会社がスタートである。

1947年に設立された東京医薬品と1949年に設立されたクラヤ薬品、そして三星堂の医薬品卸3社が2000年4月に合併した。これをきっかけに、メディパルHDは規模の拡大と技術進歩を遂げ、業界再編を引っ張ってきた。グループ傘下には秋田の千秋薬品、水戸の潮田三国堂、京都の井筒薬品、岐阜の平成薬品、高松のよんやく、高知の中澤氏家薬業、福岡のアトルなどの地場医薬品大手の多くが完全子会社として名を連ね、国内に300超の拠点を持つ医薬品卸の巨大持ち株会社となった。

メディパルHDが林源十郎商店をルーツとするエバルスを完全子会社として傘下に収めたのは2004年4月のこと。当時はメディセオグループと称していたが、持ち株会社としてのメディセオHDに改称したのは同年10月のことだった。

持ち株会社となって以降もメディセオHDは東京の中川誠光堂、千葉のチヤクなどのМ&Aを進めた。大阪のPALTACとの経営統合を果たしたのは2005年10月。その際は商号をメディセオ・パルタックHDに変更した。その後、北海道の丸善薬品、東京のコバショウを完全子会社化したほか、佐世保の東七の株式を一部取得。2009年10月に医療用医薬品卸売事業を分割してメディパルHDに改称した。

レトロな建造物から新しい倉敷のデザインが生まれる(林源十郎商店外観)

林源十郎商店といういかにもレトロ&ドメスティックな社名の地場の老舗薬種がM&Aの大波・荒波に飛び込んでいったことになる。

ちなみに、メディパルHDのM&Aをエバルス側から見ておきたい。2004年4月にエバルスは株式交換でクラヤ三星堂の完全子会社となり、クラヤ三星堂から広島・岡山両県の営業権を譲り受けた。そして、2006年10月にはPALTACに薬粧部門を譲渡した。また、エバルスにはエバルスアグロテックという動物用医薬品卸の100%出資子会社があったが、この会社は北海道の丸善薬品に吸収合併されて消滅した。

医薬業界の大再編の渦に揉まれるような歴史をたどってきた林源十郎商店。ただ、どのように揉まれたとしても、約360年生き続けてきたその創業精神は今日、倉敷生活デザインマーケットとして新たな装い身にまとったかのようでもある。

文:M&A Online編集部