木工玩具として一世を風靡した「けん玉」。その発祥の地は広島県、安芸の宮島(厳島)がある廿日市市だとされている。確かに市内のふれあい通りの歩道、「けん玉公園」の入り口付近には「けん玉(日月ボール)発祥の地」というモニュメントが立ち、けん玉の路上アートなども市内の歩道では見かける。公園の遊具もけん玉ふう。
では、その製造現場は? 木工職人が働く生産工場は? と市中を探しても、ない。産業としてのけん玉は、潰えてしまったのだろうか。
けん玉の歴史は古く、江戸期にオランダから長崎に伝わったとされている。そのけん玉が、なぜ廿日市の地に根づいたのか。広島県の南西部にある廿日市は古くから中国山地からの木材の集積地として栄え、また、独特の「ろくろ細工」の技術を持つまちとして知られていた。その木材と加工技術を生かした生産物として、けん玉の原型は廿日市に根づいたようだ。
江戸期から明治期に時代は移り変わり、廿日市のまちではろくろ技術を生かした各種の木工製品の生産が増えていく。木工のおもちゃのほか、小ぶりな工芸品は宮島を訪れる観光客のお土産としても好評で、徐々に広まっていった。
だが、その当時、長崎から伝わったとされるけん玉が、「けん玉」と呼ばれていたかは定かでなく、今日のけん玉と形状は異なっていたようだ。歴史に見るのは長崎に伝わった当時、紐付きの穴のあいたボールを手に握った軸にさすという、いわばいまよりも単純なおもちゃ。まさに「剣と玉」だった。フランス語では bilboquet(ビルボケ)と呼ばれていた。
現在のけん玉に近い形状に改良され、廿日市で広く生産されるようになったのは第1次大戦後の1918年のことだった。呉出身の江草濱次という木工職人が、現在のけん玉の原型に近いものに改良した。
単純な遊び道具ほど、奥が深い。江草はピルボケの軸(棒)に受け皿をつけ、紐のついた玉を金魚すくいのように皿にすくって遊ぶおもちゃを考案した。これが現在のけん玉へとつながっていく。
そのけん玉の原型を正面から見ると、玉が太陽に、皿が三日月のように見える。そこで江草はけん玉の原型を「日月ボール」と命名し、改良の翌年1919年に実用新案登録している。けん玉の輝くような赤は、大正ルネサンス、日イヅル国、そして日本の国旗をイメージしていたのかもしれない。
江草は「日月ボール」の量産の道を探った。そのとき目に止まったのが木工職人の集まる廿日市だった。江草は1921年に廿日市で家具小物づくりを行っていたろくろ木工場の本郷木工を尋ね、ろくろ細工の技術で玉を太陽のような美しい球体に、皿を三日月のように鋭く美しくカーブするような加工を依頼した。この「日月ボール」が完成を見たたとき、現在のけん玉とその文化が花開いたのである。
剣に串刺しされる球だけのピルボケは、皿をつけることで盾と矛を身にまとい、さらに弾丸を備えたように進化した。おもちゃとしての機能も充実し、遊び・技の種類をいっそう多様化させた。
けん玉は遊戯の多様さから何回もムーブメントを起こした。大正期から昭和初期にかけて、国内はもちろん海外へ輸出される工芸品ともなった。
子どもから大人を巻き込み、競技も活発になった。1970年代には市内で6軒以上の木工工場が、年間約40万個のけん玉を生産していたようだ。
だが、ブームは永続しないからこそ、ブームである。市場・需要の変化、職人や製造業者の経営者の高齢化なども相まって、木工職人が勤める製造業者の経営は成り立たず、転廃業も続いた。最後に残ったのは、共栄玩具という会社であった。だが、その共栄玩具も1998年に生産を中止。最盛期には国内けん玉製造の7割を占めていたされる「廿日市のけん玉」の生産の火はいったん消えた。
だが、けん玉づくりの会社・木工場はなくなっても、木工職人が培った技術の火まで消えることはなかった。観光協会や商工会議所、廿日市市、さらにけん玉愛好家などの後押しもあったようだ。21世紀に入り、元共栄玩具の職人が、組織としてのけん玉製造はできないものの、技術の伝承は可能だと立ち上がったのである。
当初は元木工職人による細々とした再興であったのかもしれない。だが、地元の後押しもあり、2011年から、同市の木材利用センターで制作したけん玉を市内全小学校に配布し、その普及に努めはじめた。今日、同センターでは木工教室などを通じて、元木工職人によるけん玉づくりなどを指導している。
2021年には江草が本郷木工とともに「日月ボール」の量産を始めて100周年を迎えた。2014年以降、毎年開催される「けん玉ワールドカップ」の100周年記念大会は新型コロナ禍の影響もあり、オンライン開催となったが、700人近い国内外のプレーヤーが参加した。
101年目となる「けん玉ワールドカップ」2022は12の国と地域から725人(最年少2歳、最年長84歳)の参加者を集めて7月30日、31日の2日間をかけて開かれた。企業の存続は重要なことだが、同時にその会社・産業が育んだ技術や文化をいかに伝承するか。その手法をけん玉は教えてくれている。
文:菱田秀則(ライター)