阪堺電車 生き残った“なにわのチン電”|産業遺産のM&A

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阪堺電車は地元堺市民の足として欠かせない存在

「はんかい」の名で親しまれる阪堺電車(阪堺電気軌道)は、文字どおり大阪(天王寺・今宮周辺)と堺市(浜寺公園周辺)を結ぶ大阪唯一の路面電車だ。その歴史は古く、前身は大阪馬車鉄道。1897(明治30)年5月に設立された。当時は軌道に乗った客車を、馬がポッカポッカと曳いていた。明治初期から中期にかけて全国で敷設された馬車鉄道の1つである。

現在は上町線と阪堺線の2路線全長約18kmに路面電車が走り、地元の欠かせない足として利用され、また多くの鉄道ファンの人気を博している。現存する最も古い車両は1928(昭和3年)製モ161形。路面電車は車両1つの単行運転が多く、スピードも低いため直接制御器の2個モータ車がほとんどだった時代、4個モータ車でしかも複数のモータ車を総括制御する連結運転は、日本の路面電車で初めてといわれ、鉄道車両史上も貴重な産業遺産であるとされている。

その阪堺電車を経営の視点から見ると、昭和のモータリゼーションの波に乗り遅れ、これまでも廃線の危機にさらされ、スポンサー探しに腐心してきた。

南海鉄道に吸収合併されるも、一時期、近鉄の一路線として運行

大阪馬車鉄道は設立3年後、1900(明治33)年9月に天王寺西門前から東天下茶屋間を開通させて上町線として開業した。その後、路線を延長するとともに、馬車鉄道から電気鉄道へと切り替えていった。

その電化工事のさなかに、最初のM&Aが行われている。大阪南部の私鉄の雄である南海鉄道との合併である。電化工事は南海鉄道が引き継ぎ、南海鉄道の上町線として営業運転が始まった。

南海本線と連絡が可能になったのは1913(大正2)年のこと。その後、1921年には南海鉄道は天王寺西門前から天王寺駅前間を大阪市に譲渡している。

一方の阪堺線は、1910(明治43)年3月に設立した旧阪堺電気軌道が敷設した路線だ。1911年に恵美須町〜大小路間を開通させ、1912年には現在の阪堺線が営業開始されている。

南海鉄道としては上町線(大阪馬車鉄道)と同様に、大阪と堺という大都市を結ぶ阪堺線の買収を目論んでいたはずだ。南海鉄道と旧阪堺電気軌道の旅客誘致競争が激化する。最終的には、1915(大正4)年に南海鉄道が旧阪堺電気軌道を吸収合併し、阪堺線は南海鉄道の一路線となった。

実は上町線・阪堺線ともに、もう一段の数奇な運命をたどる。第2次大戦中の企業統合政策に巻き込まれたのである。1944(昭和19)年6月、阪堺線と上町線を得た南海鉄道は関西急行鉄道と合併することとなった。関西急行鉄道は現在の近鉄(近畿日本鉄道)である。阪堺は南海と思っていたら近鉄? 終戦直後まで、阪堺電車は南海と近鉄、そして戦禍に振り回されていたのである。

だが終戦直後の1947年6月、上町線・阪堺線の2路線は南海鉄道の路線とともに、新立した南海電鉄(南海電気鉄道)に引き継がれることになった。以後は上町線・阪堺線ともに、南海電鉄の一路線として営業することになった。

1980年に分社化後、堺市の財政支援を受ける

1980年12月、上町線・阪堺線に大きな転機が訪れた。南海電鉄平野線が廃止されたのと同時期に、2路線は南海電鉄の100%子会社の阪堺電気軌道として分社化された。以後、阪堺電車は阪堺電気軌道の路線として再スタートを切った。

昭和・平成・令和と活躍するモ161形

だが、再スタートといっても、路面電車の経営はたやすいものではなかった。南海という大手私鉄の陰で厳しい経営を続ける阪堺電車は、2010年から阪堺線のターミナルのある堺市に10年間で計50億円の支援を仰ぐ。地元密着の路面電車としては、地元である堺市の支援は苦肉の善後策ともいえた。

地元自治体の財政支援を受け、阪堺電車側も満65歳以上の堺市民が100円で利用できる割引制度などで地元密着をアピール。車両のラッピング広告や地元住民参加型のイベント、電車グッズ販売なども積極的に行うなど営業努力を続けた。その努力が実り、一時は遠のいていた客足も少しずつ戻ってきた。地元市民も路面電車の利便性をあらためて感じ、ちょっとした買い物やお出かけなどの“普段づかい”で利用することで路線を支えてきた。

阪堺電車は阪堺線の低床式車両「堺トラム」を2013年に導入するなど刷新も進め、2020年に開業120周年を迎えた。それを機に最も古い車両のモ161形を動態保存する大規模修繕のためにクラウドファウンディングを実施し、1398万7000円の支援を得た。

大阪唯一の路面電車は地元住民のみならず、広く全国の鉄道ファン、阪堺ファンからの注目も集め、121年目の歴史を疾走している。

文:菱田秀則(ライター)