行田足袋蔵 縮小する市場と再生する蔵|産業遺産のM&A

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牧野本店の工場・土蔵を活用した「足袋とくらしの博物館」

埼玉県行田市は日本最大の円墳である丸墓山古墳をはじめとする「さきたま古墳群」、映画「のぼうの城」の舞台ともなった忍城など歴史に彩られた県北の町。そして行田市は、足袋の産地としても知られている。

行田で足袋づくりが始められたのは1700年代初期の江戸時代・享保年間だといわれている。もともと行田では肥沃な土壌を生かした綿や藍の栽培が盛んで、藍染の綿布がつくられるようになった。この綿布を原料に足袋づくりが始まったとされる。そして享保年間に忍城の藩主が藩士の家族、妻たちの内職として足袋づくりを奨励し、行田に足袋づくりが根づいていった。

生産量が増大したのは明治以降。行田では、いち早く足踏みミシンを活用した。当時、行田は県名の由来となる埼玉(さきたま)の地名が物語るように、埼玉県においては工業や商業の集積地の1つだった。まさに、県北の要衝地。そのため、後に、りそな銀行へと後継される忍商業銀行や東京電力へと後継される行田電灯などが設立されている。いち早い産業振興・殖産興業を後ろ盾に、一気に足袋製造を増大させていったのである。

足踏みミシンは工業用電動ミシンに変わっていく。増産に欠かせない資金と電力。この2つを背景に、行田足袋は1938年には日本の足袋生産量の8割を占めるようになったといわれている。

市街80カ所に点在する足袋蔵

現在、行田市の市街地を歩いてみると、足袋大手のメーカー工場があるわけでもなく、市街のそこかしこに点在する足袋蔵の街であることがわかる。足袋蔵とは文字どおり足袋の保管庫。その多くが明治期に建てられた。

木造の足袋蔵もあれば、土蔵もあり、石造りの足袋蔵もある。まさに多種多様な“蔵構え”だ。造り酒屋の酒蔵や醤油蔵、ワインの醸造庫など、重量のあるものを保管するのでもなければ、銀行の金庫のように重厚な扉をもつようなものでもない。それぞれ独立した足袋業者が会社や自宅店舗の裏庭に、思い思いに蔵や工場を設けたような印象さえある。

現存する足袋蔵は70〜80棟ほどだという。行田の足袋蔵は2017年に日本遺産に認定され、市では足袋蔵散策コースも設定し、観光に力を入れている。

窮地にあって見い出された新たな価値

そんな足袋蔵のいくつかを見て歩こう。まず、足袋製造業者として一時代を築いた牧野本店。「足袋とくらしの博物館」の資料によると、牧野本店が足袋をつくり始めたのは1874年のこと。順調に商売を広げ、1900年代に入り3棟の足袋蔵を持つようになった。大正期には白足袋の製造を始め、木造洋風建築の工場や店舗兼母屋も新設した。昭和期に入り、足袋産業の全盛期には工場を建て増し、「力弥たび」のブランドで青森県八戸市を中心にビジネスを拡大していく。

だが、牧野本店にも伝統産業につき物ともいえる難局が訪れた。産業そのものの衰退、従業員の高齢化、後継者不在などである。地域産業の中心的な存在であったであろう牧野本店も、これらのハードルを乗り越えることはできず、2005年4月に会社をたたみ、約130年の歴史の幕を閉じた。

現在、足袋蔵歩きのメインポイントでもある「足袋とくらしの博物館」は、この牧野本店の工場・土蔵を活用した施設である。埼玉県の助成もあり、2005年10月にNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークが博物館としてオープンさせた。

現在はレンタルスペース、アーティストシェア工房、藍染体験工房となっている牧禎舎

もう1つ、現在はレンタルスペース、アーティストシェア工房、藍染体験工房となっている牧禎舎も見てみよう。行田市広報誌によると、牧禎舎はもともと牧野本店から独立した牧禎商店という店の事務所兼住宅、工場だった。牧禎商店の創業は地元足袋業界のなかでは遅く、1940年ごろ。日中戦争のさなか、足袋をはじめ被服商として事業をスタートした。

ところが、牧禎商店も後継者難や従業員の高齢化、足袋産業の衰退には打ち勝てなかったようだ。1970年代後半に工場は埼玉応化という会社に貸与するようになり、店をたたむことを決意した。そして、創業者が亡くなったあと、遺族がこの事務所兼住宅の有効活用をNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークに持ちかけた。

その結果、工房・レンタルスペースとして2010年にスタートしたのが牧禎舎である。ちなみに、牧禎舎の名称は牧禎商店創業者の遺族が命名したものだという。創業者亡きあと、事業をたたんでも、その遺志は継承されていったのである。

そのほか、武蔵野銀行行田支店も足袋関連の業者が活用していた建造物である。武蔵野銀行行田支店は忍貯金銀行店舗として1934に竣工したが、戦時中に行田足袋元売販売という会社が建物を買収した。戦後は足袋組合の施設である足袋会館となり、現在の武蔵野銀行行田支店となったのは1969年のことである。

1社1ブランドが支えた足袋産業

「足袋」の町というよりむしろ「足袋蔵」の町としてPR?

今日、日本全国どの伝統産業も大きな岐路に立っている。復活・再生する伝統産業もあるが、その一方で衰退の一途をたどり、やがてすたれてしまう伝統産業もあるだろう。行田足袋も例外とはいえない。日本の足袋産業全体の市場がしぼんでいくなかで、多くの業者が会社・店舗をたたんでいる。

だが、行田足袋は多くの業者が会社・店舗をたたむなかでも、独特の「のれん分け」を生かして、伝統産業として根づいてきた。行田足袋は伝統産業として日本一の生産量を誇るようになっても、企業統合による大企業化、いわゆる旧来型のM&Aによる集約はほとんど行われなかった。

むしろ、そうしたM&Aとは逆に、牧野本店・牧禎商店のようにのれん分けを進め、数多の足袋商が林立・共存するスタイルでの産業振興の道を選んできたのである。そのため、販売網も統一するのではなく、牧野本店は青森の八戸であるように、それぞれの足袋業者が独自に販売網を築いた。

全国シェア8割を誇った昭和初期、行田の足袋業者はそれぞれが独自ブランドを持つようになった。その数は200を超えるともいわれた。一極集中した巨大ブランドが産業を支えるのではなく、数多のブランドが群雄割拠することで産業を支えたのである。

しかし、現在は5社ほどが生産を続けている状態だという。行田足袋が伝統産業として潰えなかったのは、大企業化、一極集中をせずに、分散し、かつ協働してきた成果だということができる。そして足袋市場全体が縮小するいま、行田足袋の生産量は全国シェアにおいて優位ではあるものの、「足袋」の町というより「足袋蔵」の町といったほうがふさわしい状態になっている。

かつてM&Aでは、それこそ大手の合併や買収などが大きなニュースになっていたが、今は、小さな町工場の事業承継や事業再生も大きな役割として位置づけられるようになった。行田足袋の業者を見渡せば、イサミコーポレーションのように、もともと明治後期に足袋の製造からスタートし体育衣料品、学生の制服分野に進出した例もある。もともと行田足袋はそれぞれの業者が独自性を発揮しつつ協働化してきただけに、新たな活路も見出せるのではないだろうか。

 文:M&A Online編集部