「青天白日」心に照らして決断する|M&Aに効く言志四録

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自分の心にやましさのない決断を下すことが大事(kazoka30/iStock)

終わりを全うする

 『南州手抄言志録』は、西郷隆盛が『言志四録』から101条を抜き出して座右の銘としたものです。そのなかから私たちにも参考になりそうな言葉を探しています。その4回目は『言志四録』の四巻目にあたる『言志耋録』から見ていきます。

 佐藤一斎は『言志耋録』の「はしがき」に「私は今年で80歳になった。幸いにも目も耳もそれほど衰えていない。息をしている限り学ぶことをやめてはいけない。一条ずつ執筆して本書を編んだ。これを耋(てつ)録とする」と記しています。「耋」には80歳といった意味、高齢の意味などがあります。

 この四巻目は80歳からの2年間に記された340条が収められており、西郷隆盛はその中から24条を選んで『南州手抄言志録』に収録していました。

 ところで、最後のページ、340条になにが書かれているでしょうか。

吾が躯(み)は、父母全(まっとう)して之れを生む。当(まさ)に全うして之れを帰すべし。臨没(りんぼつ)の時は、他念有ること莫(なか)れ。唯だ君父の大恩を謝して瞑せんのみ。是(こ)れ之(こ)れを終(おわり)を全(まっとう)すと謂う。(『言志耋録』 340 君父の大恩を謝して瞑せん

●臨終の時

 この体は父母が完璧な思いの結果、生んでくれたもの。ということは、その完璧な思いのままに終えるべきだろう。臨終の時は、ひたすら、父母の大恩を感謝して目を閉じるだけで、ほかのことは考えないことだ。終りを全うするとは、こういう臨終のことなのだ。

 人についての話ですが、企業(法人)でも言えることですね。M&Aで、買収によって子会社にする方法が新型コロナ禍にあって増えているような印象があります。NTTによるNTTドコモの子会社化、ニトリホールディングスによる島忠の子会社化などが大きな話題となりました。

 子会社にすることで、メリットやデメリットがあるわけですが、合併と違い企業そのものは存続します。ただ経営権親会社に移ります。その意味で子会社になったからといって、その会社がなくなるわけではありません。

 倒産、清算以外にも、世に生まれた企業(法人)に、ある意味の終わりがやってくることは珍しいことではありません。生まれたり消えたりといったダイナミックな資本の動きは、経済の活力にもなります。

 始め方に比べると終わり方については、切ないのでなかなか日頃から具体的にイメージできないことが多いかもしれません。ですが、人間の死生観と同様に、企業、事業の死生観も、経営者、リーダーにとっては大切な考え方、いわば哲学となるはずです。

やましさのない心

 ちなみに、『言志耋録』の340条には末尾に佐藤一斎の三男の名が記され、編纂に手を貸していたそうです。一斎は80歳から執筆して、刊行は83歳。そして88歳で永眠しました。亡くなる前に人間の最期についてしっかり記しておこうとしたようで、この終盤には「養老の法」であるとか人生の計画、孫が可愛いといった老境、そして死ぬことについての条が並んでいます。ご興味のある方は一読してみてください。

 このように、いわば死生観であるとか、生死についての話がどうしても多くなりがちな『言志耋録』から、49歳で波瀾の人生を終えた西郷隆盛はどのような言葉を選んだのでしょうか。

「心静にして方(まさ)に能く白日(はくじつ)を知り、眼(まなこ)明にして始めて青天(せいてん)を識(し)るを会す」とは、此れ程伯(ていはく)氏の句なり。青天白日は、常に我に在り。宜しく之れを坐右に掲げ以て警戒と為すべし。(『言志耋録』 57 青天白日は我にあり

 ●晴れ渡った心

「心が静かな時に、輝く太陽の有難さを知ろう。眼がはっきり見えている時に澄み渡った大空の爽快さを知ろう」とは程明道、つまり程顥(ていこう)の句である。このように青天白日は自分の中にある。座右の銘として自分を戒める言葉としたい。

 青天白日とは中華民国の国旗としても知られていますが、晴れわたった空と日の光のこと。心にやましさがなく、後ろ暗さがない状態。無罪であることや無実が証明される意味でも使われています。程顥は中国、北宋の思想家で明道先生と呼ばれ、道学の創始者。人望が厚いことで知られていました。

 西郷のモットーである「敬天愛人」にも通じるものがあります。彼の行動をこの言葉を通して考えると、長州征伐、大政奉還、戊辰戦争、西南戦争と、そのつど、恐らく自分のなかにある青天白日に沿って決断していたのかもしれません。それを外から見て、あれこれと批判するのは簡単ですが、人の生きる道として大事なこととして、自分の心にやましさのない決断を下すことが大事なのです。

 そのとき、佐藤一斎による「自己」についての独特の考察が参考になります。

真の己れを以て仮の己れに克(か)つは、天理なり。
身の我れを以て心の我れを害するは、人欲なり。
(『言志耋録』 40 真の己と仮の己

●仮の自分に負けるな

 真の自分は、仮の自分に勝つのが天の道理だ。肉体の自分が心の自分に害を及ぼすなら、それは人の欲望がそうさせているのだ。

 人には欲があります。肉体が求める欲望はその代表例でしょう。衝動です。衝動に突き動かされるのも人間なら、それを「これは本当の自分じゃない」と冷静に判断して、自分を欲望から守ることができるのも人間ならではのことでしょう。青天白日の心を汚さないためには、衝動や欲望の制御が求められるのです。

体が軽く感じられるとき

気力の充実こそが私たちを正しい道へ突き動かす(Gilitukha/iStock)

 もっとも、現実にはそこまで清廉潔白な人は恐れ多くて近寄りがたい、共感されにくい面もあるでしょうから、公私にわたって加減やバランスこそが現代では求められることになるのです。いわば心の弱さを理由にしない姿勢、とでもいうものでしょうか。

 『言志四録』全般に、精神とか天とか自然といった、理解するには難しい概念も多く出てくるのですが、なかでも気、霊についての言及が『言志耋録』には目につきます。西郷もそのなかからいくつかの言葉を選んでいます。自分の本当の姿、その内に潜むエネルギーについて考えを深めたいと思っていたのかもしれません。

 欲、心、決断、決意などにまつわる気持ちと葛藤、本当の自分について考えるときに、まるで触媒のように気とか霊を活用してみるのもいいかもしれません。ここでは深くは触れませんが、2つの言葉をあげておきます。

人心の霊なるは気を主とす。「気は体の充(み)てるなり」。凡そ事を為すに気を以て先導と為さば、則ち挙体失措(きょたいしっそ)無し。技能工芸も亦皆是くの如し。(『言志耋録』 77 霊と気 二則 その一

●霊と気の法則その一

 心の神秘的な働きは気によるものだ。「気とは、肉体に満ちているもの」。なにか決断するとき、行動するとき、この気を頼りにして進んでいけば間違いはない。技能や工芸に関しても同様だ。

 つまり肉体は欲望に支配されやすいけれども、そこに満ちている気こそが心に正しい道を示しているというのです。気力の充実こそが私たちを正しい道へ突き動かし、一貫性のある決断、行動へとして発揮される、という考えでしょう。

霊光に、障碍(しょうがい)無くば、則ち気乃(すなわち)流動して餒(う)えず、四体軽きを覚えん。(『言志耋録』 78 霊と気 二則 その二

●霊と気の法則その二

 心に備わる神秘的な力をそのまま受け入れることができたら、気が体全体にあふれて不活発になることはない。体が軽くなるのを感じるはずだ。

 心のなかにある本当の自分を素直に開放していくことで、肉体に潜む気を全体に行き渡らせることができ、体が軽くなる、というのです。体が軽いこと、それは心のままに自由闊達に決断し行動できる状態なのです。

※漢文、読み下し文の引用、番号と見出しは『言志四録』(全四巻、講談社学術文庫、川上正光訳注)に準拠しています。

文:舛本哲郎(ライター・行政書士)