M&Aの難しい部分としてよく耳にすることは「守秘」でしょう。業務上で知り得たことを他に漏らさないにようにすること。M&Aは大胆な経営判断となりますが、細心の注意を払ってことを運ばなければ、思いがけないところで座礁したり、あっけなく瓦解してしまう恐ろしさがあるからです。
それでいて、M&Aではそれなりに多くの関係者がいます。当事者だけでも最低で2社、その内部の関係者、M&A専門家たち、金融機関、行政などが加わります。内部関係者には家族が含まれるケースもあります。その誰もが基本的には守秘を前提に関わっていくのです。
とくにいまの時代、オンラインによるマッチングや第三者を介してのM&Aも盛んになっています。関わる人は思っている以上に多く、その間をさまざまな情報が行き交います。その多くは事態に重要な影響を与える情報ではないかもしれませんが、どこかに秘すべきことも含まれているかもしれません。
M&A専門家や金融機関には、守秘義務が業務の上できっちり保たれていることが前提になります。では、当事者とその周辺に存在する関係者たちはどうでしょう。どの情報が問題になるのか重要度を認識できているでしょうか。その上でどの情報を共有していいのか判断できているでしょうか。こうしたことは注意を払っていても、迷うことも多いかもしれません。
基本的には情報は共有されることでいまの時代はスムーズに進むことが多いのですが、それでも「重要情報の漏えい」の危険性はつきまといます。そのために技術的に情報を管理し、重要度を認識し、関係者全員でしっかり取り組むことも、M&Aを成功させるためには必要なことです。
一方、技術で補えない部分はどうするか。人と人のつながりの中で進むM&Aは、最後には人に尽きることになります。関係するみなさんの心構え、気持ち、言動に依存することになるのです。成功しているM&Aではよく「いい人と出会えた」との声が聞かれます。おそらく、その人は信用できる人でしょう。では、私たちはどこでその人を信用するのでしょう。どうすれば信用に足る人間になれるのでしょう。
秘密を守ることについては、以前にここで連載した「M&Aに効く論語」でも触れた「信」が関わってきます。秘密を共有する関係の根底には「信」があるはずです。
言志四録を執筆した佐藤一斎は儒学者ですので、その考えの根本に「論語」があります。その第一巻である「言志録」で、『「信」三則』を記しているのも当然のことでしょう。
信を人に取ること難(かた)し。人は口を信ぜずして躬(み)を信じ、躬を信ぜずして心を信ず。是(ここ)を以(もっ)て難し。(『言志録』148「信」三則 その一)
●信用を得る
信用を得ることは難しい。言葉で説明しても、信用は得られない。態度や行動を示さないと、信用は得られない。その態度や行動でさえも、実は信用されてはいない。結局は、人は心を信じる。それでいて心を人に示すことはとても難しい。だから信用を得ることは難しいのだ。
確かに、信用してもらうために心が大事だとすると、見えない心が相手となってしまうので、技術的な対応ではムリがありそうな気がします。
相手を信用するかどうか迷ったときを考えてみてください。「あの人の本心はどこにあるのか?」「本当はどう思っているのだろう?」とついつい心の中まで疑ってしまうことがあるものです。
ですが、心を覗き込むことはできません。
それでは、いったい、私たちはどのように相手を信じるのでしょうか。どうすれば相手に信じてもらえるのでしょうか。
臨時の信は、功を平日に累(かさ)ね、平日の信は、効を臨時に収(おさ)む。(『言志録』149「信」三則 その二)
●信用を重ねる
突発的な事態で得た信用によって、日々の信用が高まっていくことがある。そして日々の信用の積み重ねから、突発的な事態にも大きな信用を得て対応できることになる。
予定外のこと、思いもよらないことが起きたときこそ信用を築くチャンスになります。同時にいっきに信用を失う危機でもあるでしょう。こうした難局での態度、言動こそが重要になってくるのは明らかです。
とはいえ、それを発揮するためには、すべてが予定どおり、問題なく進んでいるときにこそ、信用についてきちんと考えて行動していなくてはならないはずです。
思いがけない危機のときに、日頃から積み重ねてきた信用が大きく評価されることになるのです。
信、上下(しょうか)に孚(ふ)すれば、天下甚(はなは)だ処し難き事(こと)無し。(『言志録』150「信」三則 その三)
●信孚
上に対しても下に対しても、真実をもって誠実にあたれば、この世の中で対応できないことはなにひとつない。
三つ目の「信」として、隔たりなく誠の心で信用を築くことで、難しい問題に直面しても乗り越えていけるのではないか、というのです。誠とは、偽りなき心。またしても心の問題になってしまいますが、評価する側にとって相手に偽りがないことで、その言動は信用するに足りることになるでしょう。
このように「言志録」の「信」三則では、「心を信じること」を第一として、次に、それは、突発的なとき、平時の日々、どちらでも信じられる行動を取ることで積み上げられ、誰に対しても隔てなく誠(偽りない心)をもってあたることだというのです。
信孚(しんふ)は、信用と誠実という意味でしょう。「孚」は、孵化の「孚」で、親鳥が卵を一時も離れることなく温めることによって雛が誕生することから、偽りのない心、誠の意味を持つようになっていったそうです。
おなじ「まこと」でも、誠意の「誠」に比べると、「孚」は本能的に卵をかえすように、その人の本質に備わっていてどんなときにも発揮されるイメージではないでしょうか。
信と誠は、「論語」でも重要な要素ですが、人を信じる、そして人に信じてもらうことは、時代を問わず人間社会においてはとても重要なことであり、今後もそれは変わらないのです。
日頃の、そしてわけ隔てなく信用を重視して対応していくことが、人から信用されることにつながりますし、私たちもそうした人を信用したいと願っています。
守秘の問題は、技術的な対応だけではなく、偽りのない心(誠、孚)も重要になってきます。佐藤一斎の『重職心得箇条』には、秘密についてこんな条文がありますので添えておきましょう。
物事を隠す風儀甚(はなはだ)あしし。機事は密なるべけれども、打出して能き事迄も韜(つつ)み隠す時は却(かえっ)て、衆人に探る心を持たせる様になるもの也。(『重職心得箇条』十六)
どういうことであっても、隠そうとする習慣は悪いものだ。最重要な機密は漏らしてはならないことは当然だけど、とくに隠す必要のないことまで秘密扱いにしてしまうと、人々はかえってそれを知りたい、暴きたいと思うようになってしまうものだ。
つまり、何事もオープンな姿勢であることを基本にし、本当に大切なところだけをガチッと秘密にしておく、そのメリハリ、取捨選択をしっかりさせることで、秘密を保つことができるのです。
※漢文、読み下し文の引用、番号と見出しは『言志四録』(全四巻、講談社学術文庫、川上正光訳注)に準拠しています。
文:舛本哲郎(ライター・行政書士)