【ふそう銀行】今はなき鳥取の第二地銀|ご当地銀行の合従連衡史

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隣県鳥取のふそう銀行を吸収合併した山陰合同銀行の本店ビル(島根県松江市)

「ふそう」とは中国において「日のいづるところにあると伝えられる、大きな神木」という意味がある。端的には中国から見た日本の異称だ。縁起のいい名前だが、銀行名となると、少々印象が異なる。経営破綻し、消滅した銀行が2つあるからだ。

一つは1900(明治33)年に東京で創業し、1914年、神国銀行に改名し、1918年に破綻した扶桑銀行。もう一つが鳥取県の第二地銀であった「ふそう銀行」である。

相銀時代から隣県に積極的な営業をかける

ふそう銀行の創業は1942年2月、鳥取県内の共済無尽と相愛無尽が新立合併し、同県倉吉市に本店を置く鳥取無尽として営業をスタートした。鳥取無尽はその10年後、1951年に扶桑相互銀行と改称する。その後、1989年に普通銀行に転換し、ふそう銀行に改称した。

無尽組織から相互銀行へ、さらに普通銀行(第二地銀)へ、という選択は、当時の相互銀行法の施行や廃止など法改正に即した対応であり、他のほとんどの第二地銀がたどった道である。だが、相互銀行時代と、さらに第二地銀となって以降も、ふそう銀行のたどる道はその施策が裏目に出たといわれかねないような艱難辛苦の道のりだった。

社長は1950年代に融資先の倒産により経営危機に陥った際に、当時の住友銀行(現三井住友銀行<8316>)に支援を仰いで以降、住友銀行からの人材が引き継いでいたようだ。当時、住友銀行は“収益の住友”とも呼ばれ、積極果敢な営業姿勢を続けていた。

本来、相互銀行は地元の中小企業専門の金融機関としてその存在意義を発揮していた。ところが扶桑相互銀行はその域を越え、岡山県、兵庫県など隣県での店舗展開を強化した。その姿は山陰から山陽、さらに関西へと攻め入るような様相だったのかもしれない。おそらくかなりの預貸金は鳥取県外の顧客からのものだっただろう。

大口融資先の倒産が引き金に

扶桑相互銀行は1987年、再び大口融資先の倒産に見舞われ、不良債権が増加した。もともと店舗の広域展開は相銀には調達コストなどの面で負担があり、収益を上げるのはむずかしかったはずだ。そこに大きな焦付きが発生したことになる。

1989年、ふそう銀行に改称して以降は第二地銀として地元重視の経営方針を打ち出そうとするが、県内には鳥取銀行があり、また山陰全体、中国地方には山陰合同銀行という大手地銀もあるため、実効性に乏しかったようだ。

そこでふそう銀行としては、普通銀行に転換した直後の1990年に山陰合同銀行に合併を持ちかけ、1991年4月1日に合併すると発表した。バブル崩壊による失速で、急坂を転げ落ちるような状態だったのかもしれない。合併比率は山陰合同銀行1株に対して、ふそう銀行3株。山陰合同銀行による完全な吸収合併だった。

この吸収合併では鳥取銀行、鳥取信用金庫、米子信用金庫といった地元金融機関も店舗の営業譲渡という形で協力している。なお、「ふそう」の名称は、合併直後は旧本店営業部の店名が「ふそう営業部」に変更されて残されたが、店名が鳥取営業部に変更されたことで消滅することとなった。

山陰合同銀行では、同行の投資家情報『ごうぎんの軌跡』のなかで、ふそう銀行との合併を店舗ネットワークの拡大と捉え、次のように記している。

「ふそう銀行との合併により、新たな山陰合同銀行としてスタートした。合併により、当行の合理化・効率化は飛躍的に進み、 現在の当行の大きな特徴の一つである、山陰、山陽、兵庫・大阪にまたがる広域な店舗ネットワークを得ることができた」(要約)。

文・菱田秀則(ライター)

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