一神教と疫病とコーポレートファイナンスⅨ│間違いだらけのコーポレートガバナンス(31)

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西洋に「発見」され、キリスト教は上陸したが根付かなかった日本(写真はイメージ)

前回のコラムでは、コロンブスの処女航海がついに成功し、すぐさま2回目の航海も許可されたことを書いた。この2回目の航海では、イベリア半島から追放したユダヤ教徒から略奪した財産が充当されたことを述べた。そして、航海の成功とユダヤ人の追放において、それぞれ重要な役割を果たした宮廷ユダヤ人、サンタンゲルとトルケマダは1498年、共にこの世を去った。このコラムの「スペイン編」の最後に、コロンブスの航海を端緒とした大航海時代の幕開けの時代における、西洋と日本の運命的な邂逅についても触れておこう。

そして、日本もまた「発見」された

    コロンブスの航海について、最後に触れておくべきは、やはり日本のことだろう。マルコポーロの見聞録に記述された黄金の国ジパング。コロンブスの航海の主目的は、ジパングの発見ではなかった。しかし、もしかしたらジパングにも到達できるかも知れない。そのような期待があったことも確かだろう。

    コロンブスはジパングを発見しなかったし、のちにそれが発見された時、そこに黄金など無いことはすぐ分かった。だが、西洋はある意味黄金よりも興味深いものを発見することになる。それは日本人だ。

      ナザレのイエスがキリスト(救世主)であると知らずに生きる日本人。ある者は古代からの神々を敬い、ある者は仏に祈る。この、「邪教」に耽る憐れな異教徒は闇に惑い、救いを必要としているはずだった。ところが、どうやら日本人は、何がしかの道徳や規律を持っているようだ。

      さらには当時、日本が戦国時代だったこともあって確かな軍事力を持っていた。そして、その力で自らの領土と価値観を守ることが出来ている。金持ちも貧乏人もそれなりに幸せそうに暮らしている。そんなバカな!唯一神のもとに創られたこの世界に「例外」があるはずがない。

      これは西洋キリスト教社会の人々の価値観を揺さぶり、脳みそを「バグらせる」のに十分なインパクトがあっただろう。そして勿論(もちろん)日本もまた、西洋を「発見」し、その文明に触れ、その考え方や生活様式、そして経済の仕組みを学び、取り入れていくことになる。しかし、それらの「輸入リスト」の中に、なぜかキリスト教は含まれなかった。

      なぜ、キリスト教はアジア伝道に失敗したのか

      なぜキリスト教はアジアでの布教、とりわけ日本での布教に失敗したのか。それは、政治的、経済的、そして宗教的な要素が絡む非常に複雑な問題だ。日本語も大いなる障害になったに違いない。しかし、ここでは敢えてその教義の面から1点触れておきたい。今、日本が直面する問題にも関係性があると思うからだ。

        日本への初期キリスト教伝道といえば、イエズス会のフランシスコ・ザビエルがキーマンであることは言うまでもない。ザビエルが現在の山口県など日本各地で布教活動をしていた時の記録に、布教の障害について述べている部分がいくつかある。一カ所、引用しよう。

        「日本の信者には、一つの悲哀がある。それは私達が教えること、すなわち地獄へ堕ちた人は最早(もはや)全然救われないことを非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に憐れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、あるいは施興(筆者注:ほどこし=お布施と解釈される)、あるいは祈りをもって、死んだ人を助ける方法はないだろうかと尋ねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである」
        ~中略~
        「彼らは、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことをやめない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しようがないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる」(出所:聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄)

          キリスト教は、ナザレのイエスがキリスト(救世主)であると信じることで、救われると説く宗教だ。ところが、キリストを知らずに死んだ日本人の祖先たちが、それを信じることは物理的に不可能だ。だから先祖の地獄行きは確定で、もう助からない。

          でも、生きているうちにイエスの教えを知った人々はまだ遅くない。信じれば救われる。これがザビエルの論法だ。これが中国の儒教を基礎として、日本でも独自に定着していた「先祖崇拝」と真っ向から対立してしまった。

          日本人から「お布施(献金)をすることで、先祖を救えないか」とまで具体的に問われているのに、それでは救われないと答えたザビエル。実に誠実な男だ。イエズス会を代表してアジア宣教の先頭に立つにふさわしい人物だったのだろう。

          もしこの時、ザビエルが「免罪符を買えば罪は救われる」と説いた堕落した教会のように、「お布施(献金)すれば先祖が救われる。」とでも説いたら、キリスト教は日本でもっと成功していただろうか。もしかすると、そうかも知れない。そんな風に思わざるを得ない現実に、今の日本は直面している。

            ザビエルは、この日本人の先祖崇拝が中国に起源を持つと考えた。そして、日本が文化や哲学・宗教を取り入れてきた中国でキリスト教が普及すれば、自然と日本人もそれを受け入れると考えた。中国伝道を優先すべく大陸に渡ったザビエルは、その地で病に倒れ生涯を終えた。

             西洋と日本の出会いは、「インタラクティブ」だったのではないか

              日本を中心とするアジア伝道で大きな壁に突き当たった西洋キリスト教社会。しかし、西洋と日本の邂逅(かいこう)を、ただネガティブな側面からだけ捉えるのは本意ではない。

              西洋が日本を発見した16世紀は、西洋社会でも大きな変革のうねりが加速した時代だった。大航海時代の幕開けと共に、世界の人、物、金の動きは急速に拡大していく。一方、イベリア半島から追放されたユダヤ教徒は、スペインが唯一略奪できなかった最も重要な財産である「知識、知恵、考え抜く力、生き抜く力、専門性(プロフェッショナリズム)」を引っ提げて、世界の新たな歴史に関わっていくことになる。

              そして、キリスト教の世界にも巨大な変革の波が訪れる。きっかけはテクノロジーの進化だ。中国の木版・竹版技術を応用した活版印刷が発明されると、大量の聖書が印刷された。人々の識字率が上がり、聖書を直接読む人々が増えると、疑問が湧き上がった。「教会が言っていることは本当だろうか?」

              このインパクトは、IT革命と似たようなものかも知れない。大手メディア(新聞やテレビ)しか情報源が無かった人々が、ネットを通じて様々な1次情報に触れるようになる。その結果、それまで知っていた情報が全てではないことを知った。自分たちはこれまで、誰か(権力やメディア・広告主など)の「ポジショントーク」を聞かされてきただけかも知れない。

              これと同様、聖書を直接読んだ人々の中に、これまで信じてきた教義は神の教えではなく、単なる教会の「ポジショントーク」ではないかと考える者が出てくる。そして、宗教改革が加速し、さらには宗教への関心そのものが失われている最初のきっかけにもなっていく。

              教会の教えを守っても、神に祈っても、ペストに罹った家族は救われなかった。「信仰心が足りないせいだ」というが、本当だろうか。神と教会、そして王は、本当に正しく人々を統治(ガバナンス)しているのだろうか。もし、そうでないとしたら、人は何に統治されるべきなのか。そうした疑問が西洋社会を覆っていく。

              一神教世界が日本を発見したのはそんな時代だ。伝統的キリスト教社会の立場から見れば、邪教に耽る憐れな異教徒が、独自の道徳や規律を基礎として文明を営んでいるように見えるのは、理解しがたい「不愉快な例外」だろう。「ミカド」「ショーグン」「空気」「恥」。そんなもので人は統治(ガバナンス)できない。唯一、世界を統治するのはアブラハムの神だ。

              しかし、教会的価値観や社会に疑問を持ち始めた人々から見れば、日本は実に「興味深い例外」だ。そこに希望を感じた人さえいたかも知れない。ナザレのイエスがキリストだとは知らなくても、人がより良く生きる道はあるのではないか。16世紀の西洋と日本は、実は思ったよりもずっとインタラクティブ(双方向的)に影響し合っていたのではないか。筆者はそう考え始めている。

              このコラムの舞台も、イベリア半島を離れ、オランダに移る。そこは、市場経済と資本主義、そして自由と民主主義の萌芽が早期に芽生えた地の一つだ。スペインを追放されたユダヤ教徒の一部は、やがてオランダに集結し、そこでまた新たな一歩を踏み出す。

              (この項続く)

              文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)