一神教と疫病とコーポレートファイナンスⅨ│間違いだらけのコーポレートガバナンス(24)

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ロシア軍の侵攻に徹底抗戦するウクライナのゼレンスキー大統領(Photo By Reuters)

前回はユダヤ陰謀論を流布した「シオン賢者の議定書」について解説した。そして、このフェイク本に大いに触発され、かつこれを自らの信念の実現に大いに利用できると考えた男が、ドイツ帝国で急速に台頭する。アドルフ・ヒトラーだ。(出所:アドルフ・ヒトラー「我が闘争 第11章 民族と人種「シオンの賢人」)ヒトラーが率いたナチスドイツは、「積極的キリスト教」運動を展開する。

そしてホロコーストが起きる

これは、それまでのキリスト教社会のユダヤ教徒に対する姿勢は「消極的」であるとして既存のキリスト教を否定し、より「積極的」にユダヤ教徒をキリスト教社会から取り除かなくてはならないとする運動である。

ヒトラーはキリスト教社会の中で繰り返されてきた「起承転結」を伴うディアスポラの物語に「最終的」かつ「完全に」終止符を打つと決心する。その手段は1492年のイベリア半島でカトリック両王が決断したような「追放」ではなく「民族の完全抹殺」だ。この決断が、どのような行動と結末を招いたかは言うまでもない。

ドイツにおけるナチスの台頭の原因を、積極的キリスト教運動やシオン賢者の議定書のみに求めるのは言うまでもなく間違いだ。

ケインズが「平和の経済的帰結」で指摘した過酷すぎる戦後賠償負担含め、様々な複合的要因があることは言うまでもない。しかし、ロシアが戦略的に流布した偽情報(シオン議定書)がヒトラーをインスパイアしたことは間違いない。

そして、そのヒトラーはロシア革命後に成立したソビエト連邦と対峙し、ウクライナを含む東欧の地で猖獗を極める独ソ戦を戦うことになるのだ。ロシアが自ら発したフェイクニュースの影響を受けた化け物が、今度は自分に向かってくる。これは大いなる歴史の皮肉ともいえる。

ユダヤ陰謀論を流布したフェイク本「シオン賢者の議定書」に触発されたヒトラー(Photo By Wikimedia)

このように歴史を振り返ってみたときに、現在のウクライナ侵略戦争においてひとつ気になることがある。侵略者プーチンは、なぜこの戦争の目的として「ネオナチとの闘い」を標榜するのか、ということだ。そもそも現在国民を勇敢に鼓舞し、キーウに留まって戦うゼレンスキー大統領は、ユダヤ系ウクライナ人だ。

にもかかわらずこの戦争を「ナチズムとの闘い」と呼ぶことは一見どう考えても矛盾している。ありもしない戦争正当化の理由を、最もらしく吹聴するための方便なのか。その可能性は高いだろう。しかし、ここではこうした見方に加えて、少し異なる2つの視点からも考察してみたい。

プーチンはなぜ「ネオナチ」を連呼するのか

視点1:シンプルに、ドイツ=ネオナチといっている可能性

歴史を振り返ると、プーチンが憧憬してやまない「偉大なソ連」は、ナチスドイツとの闘いに勝利することで戦後共産主義陣営のリーダーとなった。そしてソ連時代のプーチンはKGBの東ドイツ諜報部員として西ドイツと対峙し、ベルリンの壁崩壊という恥辱と敗北を目の前で味わった。

こうした原体験を持つプーチンにとって、EU、NATO、西側とはすなわちドイツのことであり、反ドイツのことを単純に「反ネオナチ」と表現している可能性がひとつ考えられる。

視点2:正教会の帰属をめぐる問題

もう一つはもっと宗教的な視点だ。第2次世界大戦における独ソ戦のさなか、ウクライナに進軍したナチスドイツは現地のユダヤ人を虐殺する。そして、この虐殺にはキリスト教系のウクライナ人も関わったとされている。このキリスト教徒は、キエフ大公国に起源を持つ正教会の教徒たちだ。

正教会は現在、モスクワのロシア正教会がありつつ、キーウにもウクライナ正教会がある。そしてウクライナ正教会の一部には近年、モスクワ正教会の影響力を排除し、距離を置こうとする傾向があるとされる。ロシア、ウクライナ、ベラルーシの起源といわれるキエフ大公国は、東欧の最初のキリスト教国家(正教会)として成立した国家だ。

故にキーウこそ東方正教会の「聖地」であり、それはモスクワではないと考えるキリスト教徒がウクライナに一定程度いてもおかしくないだろう。

しかし、これはウクライナのEU加盟という政治的な動きとは別に、プーチンを強く刺激する動きには違いないだろう。ソ連は共産主義時代においては当然に無宗教国家だったが、ソ連崩壊以降、高齢者を中心にロシア正教会の信者は増え、正教会の影響力は増しているといわれる。

そうした中で、ロシアとウクライナが「同胞」であり同じ民族であると考えるプーチンにとって、その源流たるキーウの正教会は絶対にロシアの影響下になくてはならないと考えるのは容易に想像がつく。つまり、プーチンがいうところの「ネオナチ」は、ロシア正教会(モスクワ)と距離を置き、独自路線を歩もうとするウクライナ正教会の一部の動きを支持するような人々を指す、という仮説だ。

筆者のこの仮説に基づくなら、プーチンが理解するゼレンスキー大統領は「ネオナチ」に操られた同情すべきユダヤ人であり、EU加盟も自分の信念や意思で動いているわけではない。コメディアン出身で、命じられた演技を脚本通りにそつなくこなす操り人形のような大統領だ。銃で脅せばあっさり国外に亡命して、政権を明け渡すはずの人物である。

ゼレンスキー大統領の覚悟とウクライナ人の祖国愛を見誤ったプーチン

ところがそうではなかった。44歳の若きユダヤ系ウクライナ人の大統領は、ホロコーストを生き延びた両親を持つ。ゼレンスキー大統領の家族は、ソ連崩壊後に多くの東欧のユダヤ人がイスラエルに移住した際(IT大国イスラエルの原動力となった人々だ)も、ウクライナの地で生き続けることを選んだ人たちだ。

ユダヤ人のディアスポラの歴史は「移動した人々の物語」であると同時に、「移動しなかった人々の物語」でもある。ゼレンスキー大統領とその家族は、移動しなかったユダヤ人だ。ウクライナを自分の祖国として選んだ人々である。ウクライナの歴史の中にも、キリスト教徒によるユダヤ教徒の凄惨な迫害の歴史がある。

しかし、長きにわたり独立しては大国に飲み込まれる悲劇を繰り返し、ようやく1991年に独立したウクライナは、こうした宗教や民族の相克を乗り越えて、ウクライナ人としての誇りをもち、民主主義を育てていこうとしている。そのウクライナの地で生きて死ぬことを選んだ人々の信念を、プーチンは恐らく決定的に見誤ったのだろう。

ゼレンスキー大統領はプーチンとの直接会談のみが交渉を進展させると考えており、その場所としてイスラエルのエルサレムを提案しているという。すでにイスラエルのベネット首相はプーチンとゼレンスキー大統領の仲介に積極的に動いている。

この会談は実現するだろうか。確かに、両国には多くのユダヤ人がいる。ロシア政府内の要人やプーチンを支えるオリガルヒ(新興財閥)にもユダヤ人は多い。(多くはすでに国外逃亡しているが)。このような人的背景を鑑みれば、イスラエルの仲介は有効に機能すると思われる。しかし、エルサレムにプーチンが移動して会談を行うことは、現時点では実現可能性が高いとは思えない。

ロシアとも人的関係がありつつ、それ以上に米国とのつながりが非常に深いイスラエルをプーチンが自ら赴く先として選ぶことは考えにくい。但し、ベラルーシで開催されてきた代表団による交渉が、イスラエルに舞台を移す可能性は十分考えられる。今後の戦況が長引けば、その可能性はより高まるだろう。

(この稿続く)

文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)