一神教と疫病とコーポレートファイナンスⅨ│間違いだらけのコーポレートガバナンス(22)

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スペイン・バルセロナのコロンブス像

一国の歴史を紐解くと、大きな流れの結節点とも呼べる「運命の年」が存在する。例えば日本で「天下分け目」といえば、だれでも1600年の関ケ原の戦いを思い浮かべるだろう。思想の巨人フランス系ユダヤ人のジャックアタリ氏によれば、スペインにおける「運命の年」は1492年だ。

スペインと世界における「運命の年」

アタリ氏はこの年を、スペインという一国家にとってだけではなく、世界史における「運命の年」として位置づけている。アタリ氏は、1492年にイベリア半島で起こった3つの出来事が、世界覇権の中心を中国から欧州列強へと転換させるトリガーとなり「近代の始まり」のきっかけとなったと述べている。(出典:ジャックアタリ「1492~西洋文明の世界支配~」)

運命の年、1492年にイベリア半島で起きた3つの出来事。それを一つずつ見ていこう。それは、「過去の総括」、「未来の喪失」そして、「黄金時代の始まり」である。

 一つ目の出来事「過去の総括~レコンキスタの完了~」

    まず、1492年の年明けに起きたのが「過去の総括」だ。レコンキスタ、すなわちイスラム掃討運動の完遂である。イスラム教もまたユダヤ教と同様、「ナザレのイエス」が「キリスト(救世主)」であるとは認めない一神教である。従って、キリスト教との対立は必然だ。イベリア半島は、711年にウマイヤ朝が侵攻して以来、実に800年余りにわたり、キリスト教勢力とイスラム教勢力が覇権を争った「動乱の半島」だった。しかし、13世紀以降キリスト教勢力が圧倒的優勢となり、この時点で実質的な大勢は決していたといえる。

    ところが、1237年にイベリア半島南部に成立したナスル朝グラナダ王国は、北に峻険なシエラネバダ山脈を天然の城壁とし、南はジブラルタル海峡を自然の堀として、堅牢な守備を誇った。そして、イベリア半島南部に現在も残る貴重なイスラム文化を醸成していった。世界最高のイスラム建築の一つ、アルハンブラ宮殿は、グラナダ王国の遺産である。イベリア半島のキリスト教勢力にとって、このグラナダ王国の存在は、いわば「のどに刺さった小骨」のような存在だったといえる。

    この小骨を抜き取るために、決定的な契機となったのが世紀の政略結婚だ。レコンキスタ運動でイスラム勢力と戦いつつ、キリスト教勢力間でも覇権争いが長く続いたイベリア半島の情勢は、一組のカップルが成立することで決定的な転機を迎える。カスティーリャ王国の王女イザベルと、アラゴンの王子フェルディナンドの結婚である。

    2人は1469年に、それぞれ18歳と17歳の若さで結婚。カスティーリャ=アラゴン連合王国、のちのスペイン王国の誕生へとつながっていく。2つのキリスト教王国は、共通の敵、イスラム教徒をイベリア半島から完全に放逐すべく、手を握ったのだ。そして、政略結婚から23年後の1492年1月6日。カトリック両王は、万雷の歓声の元、グラナダに入城したと伝わる。圧倒的優位を背景とした、無血開城だった。(出典:同上)

    二つ目の出来事「未来の喪失」~ユダヤ人追放(セカンドディアスポラ)~

      レコンキスタを完成させて、カトリック両王は自信を深める。長くキリスト教諸王国の財政を圧迫してきたイスラム勢力との戦争に、もう金はかからない。これまで見てきたように、キリスト教諸王国は、ユダヤ教徒を国王隷属民として管理・支配下に置き、徴税と称してその財産を巧みに収奪し続けてきた。しかし、もはやその利用価値は限定的になった。イベリア半島のキリスト教化を真に完成させるならば、イスラム教徒の次に放逐すべきは、ユダヤ教徒である。

      1492年3月20日、王の諮問会議で「ユダヤ人追放」が議題となる。前回のコラムで見てきたように、1347年のペストの襲来以降、スペイン各地において、キリスト教徒によるユダヤ教徒襲撃、財産の略奪と惨殺、そして強制改宗が激しさを増していた。

      そして、多くの新キリスト教徒(ユダヤ教からの改宗者)を生んだ一方、偽装改宗者は異端審問にかけ、容赦なく処刑してきた。こうした混乱を「完全に」かつ「最終的に」解決する手段として、カトリック両王はスペイン王国からのユダヤ人永久追放を決断する。(出典:同上)

      1492年3月31日、「ユダヤ人追放令」に両王が署名する。そして5月1日に両王国に公示された。その内容は、「すべてのユダヤ教徒を国外追放とし、7月31日までに(なんとたった3カ月だ!)スペイン王国領土を離れること。但し、キリスト教徒に改宗すればその限りではない。」というものだ。

      しかし、信仰を守り続けるユダヤ教徒が、追放令を機にいまさらキリスト教に改宗したところで、結局のところ異端審問の脅威に晒され続けることに変わりはない。敬虔なユダヤ教徒にとって、実質的な選択肢は「国外脱出」以外になかったといってよいだろう。

      借金を踏み倒し、財産を搾り取って放り出す

        そして、このユダヤ人追放令には、もう一つの大きな狙いがあった。ユダヤ教徒の財産の略奪である。追放令には以下のように記されていたという。(出典:同上)

        • 7月31日までは、ユダヤ教徒はその財産や所有物を自由に処分してよい。
        • 改宗せずスペイン王国を離れるものは、金、銀、武器、馬、「以外」のものは、すべて自由に持って行って良い。

        所有する財産は換金してもいいが、金や銀は持って行ってはいけない。これは要するに、実質的な財産は、何も持たずに出ていけといっているに等しい。そしてもう一つ重要なのは、ユダヤ教徒のキリスト教徒に対する貸付債権も、当然すべて帳消しになるということだ。債権を放棄させ、財産も持たせず、着の身着のままで叩き出す。

        これが、1000年近くに渡ってギリギリの共存を目指し、職能(プロフェッショナリティ)と財産でキリスト教国家に貢献してきたユダヤ教徒に対する、スペインキリスト教社会のファイナルアンサーだった。このような苛烈な決断がなされた背景に、ペストの度重なる恐怖に打ちのめされ、荒廃した人心を見るのは筆者だけだろうか。

        この突然の追放令が、ユダヤ教徒社会に与えた影響は計り知れない。紀元前後に起きたファーストディアスポラで古代イスラエル王国の地から追われ、イベリア半島に移り住んできたユダヤ教徒たち。彼らはキリスト教徒とイスラム教徒の争いに翻弄されながらも、持ち前のフツバ―の精神(不撓不屈の精神)で、ギリギリの共存を目指し、その職能と財産でイベリア半島の国家に貢献してきた。

        彼らは、そうした歴史に誇りさえ持ち、自らをスファラディユダヤ人(スペインのユダヤ人)と称した。しかし、そうしたスファラディの誇りや、共存への希望のすべては、この追放令で打ち砕かれることになる。歴史を振り返ってみたとき、この追放令はスペインという国家にとって「未来の喪失」にほかならないように見える。

        ユダヤ人追放により、スペインは国家を運営する財政や金融をはじめとする重要なノウハウ、そして天文学、地図学、航海術、医学、薬学などの最新の技術や知識をリバイスできなくなったと考えられる。そして、長期的に見て弱体化していく引き金になった。そう感じざるを得ない。

         2014年、離散ユダヤ教徒のスペイン国籍回復法が成立

          スペイン国家の名誉のためにひとつ補足するならば、現代のスペインの人々にとってもこのユダヤ人追放は長く尾を引く歴史の蹉跌だ。

          追放からおよそ520年後の2014年、スペイン政府は、1492年に追放したスファラディユダヤ人に対し、希望するすべての人に、スペイン国籍を認める法案を承認した。スペイン政府は、この法案の趣旨を「歴史の誤りを正すため」としている。筆者には、これは歴史に対する真摯な姿勢に思える。

            スペインを脱出したユダヤ教徒の多くは、ユダヤ教徒の弾圧が当時まだそこまで苛烈ではなかったポルトガルに逃れる。しかし、ポルトガルでもやがて迫害が激しくなると、ユダヤ教徒達は、オスマン帝国領域(現代のトルコ周辺域)、そしてオランダに集結することになる。

            そこで彼らは、新たな歴史の幕開けに再び関与していくことになるのだ。このコラムの舞台も、スペインを離れ、オランダに移っていくことになる。しかしその前に、1492年に起きたもう3つ目の出来事について触れよう。

            三つ目の出来事「黄金時代の幕開け~コロンブスの初航海と新航路の実証~」

              1492年に起きた3つの出来事で、知らぬ人はいない最大の事件が、コロンブスの初航海の成功である。希代の冒険家であり、起業家、そして野心家だったイタリア・ジェノバ出身のコロンブス。彼は、足掛け10年以上にわたる長い資金調達ラウンドを成功させ、自身が持つ大いなる仮説「西回りでのインド到達」に向けて旅立つ。

              このコロンブスの初航海は、起業家が投資家から出資を募り、それによって航海を成功させた、最も初期の、最も成功したベンチャー投資案件だ。この成功は、しばしば株式会社の機能を効果的に説明する例としても話題に上がる。細分化された持ち分(株式)を活用して、不特定多数から資金を調達し、大きなビジネスを成し遂げるという話だ。

              しかし、株式会社が有限責任制度を伴って世界に誕生するのは、この連載の中で何度も触れている通り、1600年代初頭のオランダ東インド会社からだ。この意味において今日の概念に例えるなら、コロンブスの資金調達はコーポレートファイナンスではなく、「プロジェクトファイナンス」である。

               資金調達をめぐるコロンブスの悪戦苦闘は、現在のIT起業家のそれと瓜二つ

                この、コロンブスのスタートアッププロジェクトファイナンス。掘り下げてみてみると、実に興味深い。筆者は仕事柄、スタートアップのファイナンス支援や投資に関与させて頂くことがある。

                その視点で見ると、今から500年以上前にコロンブスが成し遂げた資金調達をめぐるドラマと、現代のスタートアップ起業家が悪戦苦闘しながらファイナンスを成功させる姿が、まさに「瓜二つ」という言葉以外形容し難いほど、よく似ているのだ。

                これは、イノベーションとディスラプト、ドラッカーの言葉を借りるなら「創造と破壊」を生みだすプロジェクトファイナンスの仕組みは、500年前から本質的には何も変わっていないということでもある。そこで、コラムの舞台をオランダに移す前に、起業家コロンブスの「スタートアップファイナンス」の詳細を整理してみよう。コーポレートファイナンス誕生前夜のコロンブスの栄光と挫折。そこにはきっと、現代に通じる重要な示唆があるはずだ。

                (この項続く)

                文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)