一神教と疫病とコーポレートファイナンスⅨ│間違いだらけのコーポレートガバナンス(21)

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大流行したペストはイベリア半島に到達し、ユダヤ人コミュニティーに大打撃を与えた(写真はイメージ)

1347年に欧州に上陸したペストは、中欧と東欧を席巻し、ほどなく南欧イベリア半島に到達する。そして欧州各地で繰り広げられた惨劇が、この地でもまた繰り返される。ユダヤ教徒達は、基本的に隔離されたゲットーで生活し、かつ衛生面や食事面でユダヤ教の厳しい戒律(コーシャ)を守っていた。

ペスト襲来、そして決定的分断

そのため、ペストの流行がキリスト教社会より遅れた可能性があるとされる。これを見てキリスト教社会の大衆扇動家が叫ぶ。「サタンの手下、ユダヤ教徒が井戸に毒を撒いた。これはユダヤの陰謀である」。(出所:反ユダヤ主義の歴史 レオン・ポリアコフ)

こうしたフェイクニュースの拡散主体は、基本的に大衆だった。時のローマ教皇クレメンス6世、そして多くの宮廷ユダヤ人を抱えていた各地の王族たちの反応は違った。彼らは結局のところユダヤ教徒も多くがペストで死んでいくにも関わらず、馬鹿げたフェイクニュースがとめどなく拡散されることを強く懸念した。

そして、これを抑えるべく多くを試みた。しかし、それらはすべて徒労に終わった。(出所:ユダヤ人の歴史 レイモンド P シェンドリン)流言飛語やフェイクニュースは、時の権力から発せられると思いがちだ。しかし、多くの場合、フェイクニュースは大衆の中から発生し、大衆自身が拡散させる。これは今日のコロナ下における様々なフェイクニュースの構造とも奇妙なほど酷似している。

改宗か、死か

ペストの襲来、そしてそれに伴うフェイクニュースの拡散は、肉体と精神の両面において、ユダヤ教徒社会に文字通りの「死」をもたらす。一つはキリスト教徒によるユダヤ教徒の大量虐殺。そしてもう一つはユダヤ教徒をキリスト教徒に強制改宗させる「コンバート」だ。

ペスト襲来からおよそ40年後の1391年6月6日。セビーリャでドミニカ修道会の修道僧に扇動されたキリスト教大衆は、ユダヤ教共同体(アルハマ)を襲撃し、数千人のユダヤ教徒を虐殺。財産を略奪する。そして、キリスト教徒はユダヤ教徒に対し、この虐殺と略奪から免れるための条件を突きつける。

多くのユダヤ教徒が家族と自分を守るため、そして共同体を守るために、屈辱に震えながら十字架に接吻した。セビーリャで起きたこの惨劇は、同月中にアンダルシア地方へ、それからわずか数か月の間にスペイン全土に飛び火する。各地で虐殺と略奪をもたらし、生き残った者は強制改宗により精神を滅ぼされた。

アラゴン王国の賢君フアン1世は、こうした状況を深く嘆く。そして多くの書簡で訴えた。彼はこの強制改宗を「おぞましき罪」と断定した上で言った。「民法、教会法そのいずれに照らしても、1人の人間を強制的にキリスト教徒にすることなど許されない。ユダヤ教徒が心から納得し、進んで改宗するのでなければ、過ちは以前にも増して大きなものとなるだろう。」(出所:反ユダヤ主義の歴史 レオン・ポリアコフ)

賢君の洞察はやがて最悪の形で現実となり、スペイン史だけでなく後世の世界史にさらなる惨劇として刻まれることなる。

シン・キリスト教徒の誕生

このようなユダヤ教徒からキリスト教徒への改宗者は「コンベルソ(改宗者)」と呼ばれた。1391年の大量改宗の前にも、強制改宗は欧州の至る所で見られた。しかし、この1391年の惨劇は短期間のうちに、これまでとは比較にならないほど大規模な強制改宗者を生んだ。そして、この新キリスト教徒はその後イベリア半島における「第3の宗教勢力」ともいえる存在となっていく。

医師(薬草師)や天文学者、あるいは財務官僚や徴税請負人、ユダヤ教社会のリーダとして、王族の行く末とユダヤ共同体の存続の両方に責任を負っていた宮廷ユダヤ人にも、この改宗の問題が突きつけられる。宮廷ユダヤ人は同胞が次々と虐殺される惨劇を目の当たりにし、自らの地位と任務、そして一族を守るために多くが新キリスト教徒への改宗を選んだ。

この強制改宗が進む中で、アイデンティティーの融合が進む。それはユダヤ教徒が持つ「専門技術や知識・知恵(プロフェッショナリティ)を重んじる志向」と、キリスト教の中に本質的に内在している「無限の拡大・征服・支配志向」という二つの要素だ。強制改宗(コンバート)を通じて、それぞれの一神教が持つ特性が、新キリスト教徒のアイデンティティーの中に融合されていった。筆者はそう考えている。

増幅する新たな疑心暗鬼

強制改宗と新キリスト教徒の誕生。この出来事はイベリア半島において長く暗い影を落としてきたユダヤ教徒とキリスト教徒の緊張関係を、大量の流血を伴いつつも解決したのだろうか。当然そうではない。賢君フアン1世が憂いたように、この強制改宗は結局のところなんの解決にもならなかった。それどころか決定的破滅への新たな火種となっていく。

キリスト教徒は虐殺と強制改宗という大罪を犯すことで、結局は新たな疑心暗鬼に自らを陥れてしまうことになるのだ。キリスト教徒は慄(おのの)く。「彼ら(新キリスト教徒)は本当に心から改宗したのだろうか?生活を守るために偽装改宗しているだけではないのか?ナザレのイエスがキリスト(救世主)だと彼ら(新キリスト教徒)は本当に心から信じているのだろうか?」

強制改宗が生んださらなる複雑な構造

新キリスト教徒。一言で言ってしまえば簡単だ。しかし、信仰は結局のところ個人の内面の問題であり、そう簡単に割り切れるものではない。実際にキリスト教徒に改宗したユダヤ教徒でも、ユダヤ教徒共同体との親交や習慣が残る人々もいた。

さらには、家族間でも改宗に対するスタンスが分かれるケースもあった。両親は生活のためにキリスト教に改宗したが、子供は改宗させないケース。その逆もあった。もちろん、改宗者の中にもキリスト教を積極的に肯定する者もいた。中にはユダヤ教批判や攻撃の急先鋒となる者も現れた。

一方で、偽装改宗者も実際には多く存在した。彼らは「マラーノ」という蔑称で呼ばれた。やがて開設された異端審問所で不幸にも摘発された者は多くが拷問を受け、生きたまま火刑に処された。火刑の直前で改宗を叫んだ者は絞首刑となった。マラーノを異端審問に告発した者の多くは、皮肉にも同胞のはずの新キリスト教徒だった。強制改宗はユダヤ教社会のきずなや信頼関係も破壊していった。

そして運命の年、1492年が訪れる。

ペストにより切り裂かれた、イベリア半島のユダヤ教徒とキリスト教徒の「ギリギリの共存関係」。そしてフェイクニュースの拡散、虐殺、強制改宗。そして両者の決定的な断絶とユダヤ社会の絆の崩壊。こうした悲劇を抱えながら、イベリア半島におけるキリスト教徒とユダヤ教徒の関係は、それでもまだそこから100年続いた。しかし1492年、ついにすべてが最悪の形で終わりを迎える時が来る。

(この項続く)

文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)