【阿波銀行】傑出した豪商の魂を継ぐ|ご当地銀行の合従連衡史

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阿波銀行がネーミングライツを取得した「あわぎん眉山ロープウェイ」からの徳島市街(yaskiri/写真ac)

阿波銀行<8388>は同行ホームページの沿革「当行のあゆみ」によると、創業は1896年6月、株式会社阿波商業銀行として創業し、資本金は45万円となっている。その後、1898年10月に貯蓄銀行条例に準拠して貯蓄部の兼営を始め、1921年12月に貯蓄部を分離し、阿波貯蓄銀行が創業した。

また、その後のM&Aについては下表のようになっている。

1928年5月 徳島銀行の営業権を譲受
1934年4月 二木銀行を買収合併
1943年8月 阿波貯蓄銀行を吸収合併
1964年10月 阿波銀行に行名変更

阿波商業銀行としての創業以降、阿波銀行に大きなM&Aはない。それは徳島県においては明治・大正・昭和にかけて事業を拡大してきた“息の長い”金融機関が他に育たなかったこと、金融機関については競争原理があまり働かない状況であったことが影響しているかもしれない。たとえば、1878年に徳島に設立された第八十九国立銀行は1897年に八十九銀行と改称したものの、1909年4月に解散している。

では、もともと阿波商業銀行はどのような経緯で誕生したのか。この源流を探ると、徳島における傑出した豪商と私立銀行の圧倒的な強さが浮かび上がってくる。

阿波藍商として財をなした久次米兵次郎

阿波商業銀行の前身は、1879年に創業した久次米銀行である。久次米銀行は県内外で大きな影響力を示したものの、1891年頃に合名会社阿波銀行と合資会社久次米銀行に分割されている。その合名会社阿波銀行の業務を1896年に創業した阿波商業銀行が承継し、のちに株式会社阿波銀行になった。

では、この久次米銀行とはどのような銀行だったのか。設立したのは9代目の久次米兵次郎。阿波藍商として名を馳せた豪商である。

久次米兵次郎は代々、阿波藍商として栄えた久次米家に1829年に生まれた。40歳頃に家督を継ぎ、9代目兵次郎を名乗る。

久次米一族の経済力は、9代目兵次郎の頃には県内はもちろん日本有数のものだったに違いない。その財力をもとに、9代目兵次郎は日本で6番目となる私立銀行を設立した。特筆すべきはその資本金の額だ。当時のお金で50万円であり、阿波商業銀行の創業時の45万円をも超えていた。

明治時代の貨幣価値を考えると、物価としては1円が今の4000円くらいと考えることもでき、庶民の給与で考えると1円が今の2万円くらいの価値があったと考えることもできる。即断はできないが、約1万倍の差があるとすると、50万円の資本金は50億円となる。日本で最初に設立された私立銀行である三井銀行の資本金200万円には及ばないものの、三井銀行に次ぐ資本金規模であったとされている。

県内・大坂・日本中で活躍した阿波藍商

現代も伝統工芸として息づく阿波の藍(Kikihiro/写真ac)

では、久次米一族に代表される阿波藍商とはどのような商人だったのか。藍の産地徳島。現在は県内で10〜20haの作付面積だが、明治期には1万5000haの作付面積を誇っていたとされる。

この藍の染色を一大ビジネスにしたのが久次米一族であり、9代目兵次郎であった。

江戸元禄の頃から、庶民の衣類にも木綿が使われるようになり、徳島はその一大流通地・消費地である大坂にも近かった。紺屋(染色店)も大坂から全国へ広がっていった。と同時に、生産地である阿波では、みずから流通機能も担い、積極的な商業活動を展開していったのだろう。この生産直売人である阿波藍商のなかで才覚にあふれた者が巨万の富を築いていった。

久次米一族はそんな阿波藍商の一族で、一族は材木商としてのビジネスを展開するなど事業を多角化したようだ。そうなると、事業領域として求めるのが金融機能、すなわち銀行である。多角化する事業のなかでお金を融通しあう。久次米兵次郎は銀行設立に動いた。久次米銀行は全国への藍の流通機能をもとに、私立銀行として経営を拡大していった。

日本初の恐慌に飲み込まれる

そんな久次米銀行にも1890年代初頭に大きな転換期が訪れた。松方デフレ後に起こった起業ブームの反動としての株価の暴落、日本初の恐慌である。久次米銀行がどのような破綻をたどったのかは定かではないが、1891年には事実上破綻し経営を他に委ねざるを得なくなった。

私立銀行としての久次米銀行は合資会社として事業を継承したが、1898年に消滅している。引き継いだのは合名会社阿波銀行で、それが阿波商業銀行として再生したことになる。

東京で稼ぐ! その先には……

新町川のほとりに建つ阿波銀行本店(右上のビル。kazoo88/photolibrary)

現代に話を移そう。2019年6月25日号『エコノミスト』に興味深いデータがある。『残る・消える地銀ランキング』という特集で「ROA(総資産利益率)」を基準に第二地銀も含めてランキングを示しており、その第3 位と第4 位に徳島の地銀がランクインしている。第3位は徳島銀行であり、第4 位は阿波銀行。ROAは総資産に対してどれだけの利益が生み出されたのかを示す指標。両行は東京・関東地区で新規出店を行い、その地区で貸出残高を伸ばし、それが反映されたものだった。

このような“稼ぐ力”で大きな足かせとなるのが、本店ビルの建て替えなどに伴う資産の大量計上、それに伴う減価償却費である。

歴史ある地銀の本店の多くは本店ビルも銀行建築としての歴史や風格が漂っているが、一方で老朽化や維持の困難さもあり新築移転・建て替えるケースもあるようだ。

阿波銀行では、本店ビルではなく、2019年12月に旧来の本店営業部に近い両国橋支店を合体させ、本店営業部を新築した。かつて徳島の中心街にあった丸新百貨店の跡地。阿波銀行がネーミングライツを取得した、あわぎん眉山ロープウェイが目と鼻の先にある。丸新百貨店の閉店後、同地のビルを活用していた阿波銀行はビルを解体して本店営業部として新築。その基本コンセプトを「地方創生・地域活性化への貢献」「お客さまを起点とした銀行サービスの品質向上」としている。

建物内には、 市民ギャラリーである「阿波銀プラザ」、誰もが自由に仕事や勉強ができ情報交換や出会いの場となる「コワーキングスペース」、取引先や起業を志す人の製商品を展示・紹介する「スタートアップショップ」、デジタルを駆使した徳島県や同行の歴史・文化の展示スペース 「History Room」、擬似観光体験スペース「バーチャルシアター」などのパブリック機能を設けている(同行リリース2019年11月29日より)。通常の銀行業務で使用するのは新築ビル全体の4割ほどだという。

従来の地銀とは少し趣が異なり、施設スペースの活用で地域貢献を実現するというコンセプト。ビジネスの縁、息の長い取引を重視する阿波藍商の息遣いが聞こえてくるようだ。もちろん、こうした新機軸が同行の地盤をさらに固めるうえでどんな効果をもたらすか、四国四県のみならず他県の地銀も注目している。

文:M&A Online編集部