【今治造船】「大手も沈む」構造不況で中堅造船所が成長した理由

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2017年に完成した丸亀新ドックの全景(同社ニュースリリースより)

 今治造船は瀬戸内海を拠点とする新造船竣工量で国内最大手の造船会社だ。だが、1980 年代まではローカルの中堅造船所にすぎなかった。しかも大手造船会社に追い着き追い越して国内トップの座についた時期は、「造船王国ニッポン」の没落期と一致する。「業況が悪化すれば中堅以下の企業が脱落し、大手企業を中心に業界再編が起こる」のがセオリーだが、国内造船業界は全く逆の動きになった、なぜ今治造船は造船業界の構造不況をバネに成長を続けることができたのか。

地場中小造船所の合併で誕生

 今治造船の歴史は「M&Aの歴史」そのものと言っていい。1901年−20世紀の幕開けとともに檜垣為治氏が設立した檜垣造船所は、愛媛県の一ローカル造船所だった。最初の成長のきっかけは1940年にやって来る。その背景には厳しい資材調達事情があったという。日中戦争が泥沼化し、軍備が増強される時期にあって、造船用の資材はもっぱら軍艦をはじめとする軍需産業に回された。

 軍艦を製造する大手造船は「戦時特需」で潤ったが、割りを食ったのは民間船を手がける中小零細の造船所である。需要があっても資材がなければ生産はできない。太平洋戦争に突入する前年の1940年には、民需用造船資材の逼迫が深刻になっていた。そこで同年暮れに檜垣造船、村上(実)造船、渡辺造船、村上造船、吉岡造船、黒川造船の6社が合併して「今治造船有限会社」を設立した。合併によるスケールメリットで、資材調達を有利に運ぶのが目的である。

 その当時、経営統合で誕生した今治造船と並ぶ造船所が今治市にもう一社存在した。今治市内の無尽会社(後の相互銀行、現在の第二地方銀行)や鉄工所、建築会社、電業会社、呉服店など市内の大手商工業者が出資した今治船渠だ。1942年には今治造船と今治船渠が合併し、「今治造船株式会社」が発足する。

M&Aで休業から復活

 ところが、その3年後に敗戦。戦災で日本経済もどん底に落ち込み、今治造船の受注も激減する。従業員の多くは離散し、オーナーの檜垣一族も今治造船を離れた。同社の現場総監督だった檜垣正一氏は、退社後に檜垣造船所を再度立ち上げる。1954年には、ついに今治造船が休業に追い込まれた。

 「オール今治」で発足した今治造船の破綻は、地元造船業の崩壊を招きかねない。一度は同社を離れた檜垣氏だったが、さすがにこの事態を座視できなかった。1955年に檜垣造船所を今治造船と合併させることで桧垣氏は経営に復帰。新生・今治造船の社長には地元海運会社・愛媛汽船の赤尾柳吉社長を招聘した。大型鋼船建造への対応を急ぎ、戦後復興で沸く造船需要を取り込んだ。

 受注船舶の大型化に伴って本拠地とする波止浜地区では手狭になり、1970年に本社工場の5倍に当たる敷地面積30万㎡(現在は75万㎡)の丸亀工場を着工、翌年に完成する。こうして今治造船は中堅造船会社として、地歩を固めていく。1984年には愛媛県西条市に丸亀工場の2倍に当たる敷地面積60万㎡(現在は170万㎡)の用地を取得するなど、積極的な設備投資を進めた。

 その翌年に国内造船業界に激震が走る。記録的な円高である。1985年9月のプラザ合意で、円相場は1ドル=240円(100円=42セント)台から同年末には1ドル=200円(100円=50セント)まで一気に高騰する。当時の国内造船業は海外需要が主力であり、円高による外貨建て価格の値上がりによって価格競争力は低下した。そこでシェアを伸ばしたのが韓国の造船業だった。造船受注は韓国企業に殺到し、国内企業の業績は急速に悪化。業界の生産能力削減が避けられない状況になる。

行政主導の再編で衰退した日本の造船業

 実はそれまでも行政主導による生産力削減があった。1973年から1980年に至る2度の石油危機の間に運輸省(現・国土交通省)が海運造船審議会 (海造審)答申に基づく操業短縮や設備削減を実施している。もっとも、設備削減を迫られたのは中堅以下の造船所で、大手造船会社を生き残らせるために中小造船所を「強制淘汰」したのが実態だった。

 行政側にも言い分はある。設備削減を答申した時期には、すでに市場基盤の弱い造船所は深刻な経営難に陥っていたのだ。三重造船 (76年 負債総額109億円)、山西造船鉄工所 (77年 同574億円)、今井造船 (77年 同119億円)、波止浜造船 (77年 同420億円)、新山本造船 (77年 同178億円)、臼杵鉄工所 (78年 同239億円) など、中堅造船所の倒産は1976年から1980年の間に47社に達していた。経営破綻した中堅造船所は大手の系列化に組み入れられ、経営を再建していくことになる。

 破滅的な円高不況が起こると、1987年に海造審はまたも業界再編に向けた答申を出す。この時は一時的な需要減ではなく、「韓国勢との国際競争の敗北」という構造的な要因によるものであったために、大手造船所の生産能力も削減せざるを得なかった。当然、前回の再編時のように、大手が中堅造船所の経営再建に手を出す余裕はない。そこで存在感を示したのが今治造船だった。

造船不況期に自主合併を進めた今治造船

 今治造船は石油危機期の1979年に今井造船と西造船(現・あいえす造船)を、1983年には岩城造船を系列化していたが、1980年代後半の円高不況でも1986年に幸陽船渠(現・今治造船)、2001年にハシゾウ(現・あいえす造船)、2005年に新笠戸ドックと渡邊造船(現・しまなみ造船)、2015年に多度津造船を、相次いで系列化している。その間、大手造船会社はドックを削減し、陸上部門の大型構造物をはじめとする新事業にシフトした。運輸省が進めた大手主導のはずの業界再編は、ふたを開けてみると今治造船を軸に進んだ。

 1980年には三菱重工業や三井造船、石川島播磨重工業(現・ジャパンマリンユナイテッド)、日立造船(同)といった大手造船会社の3分の1以下の生産能力しかなかった今治造船も、1980年代以降の合併により建造量で日本最大の造船会社に成長した。2018年4月にはタンカーや自動車運搬船を手がける中堅造船所の南日本造船(大分県臼杵市)を、三井造船と商船三井から買収する。三井造船は2017年3月期連結決算で船舶事業が97億円の赤字に陥り、南日本造船株を手放した。今治造船が三井造船を事実上、救済した格好だ。

 大手造船会社が衰退する中、今治造船だけが一人気を吐いている。2017年9月には約400億円を投じて丸亀事業本部に国内最大級となる1330トン吊りの門型クレーン3基を備えた長さ600m、幅80mの新型ドックを完成した。超大型コンテナ船を同時に1.5隻建造できる規模で、国内での新ドッグ完成は実に17年ぶりのこと。その17年前のドックも、同社の西条工場に建設されている。つまり21世紀に入って新しいドックを建設しているのは今治造船だけなのだ。

 三菱重工は今治造船など専業3社に一部艦船を除く建造を委託し、自社はエンジニアリングに特化する方針だ。かつての大手造船が大同団結して設立したジャパンマリンユナイテッドも、建造量では今治造船の後塵を拝している。今や今治造船の世界シェアは、韓国の大宇造船海洋と現代重工業に次ぐ第3位のポジションにある。わが国の「造船王国」の看板は、今治造船によって支えられているのが現状だ。 

衰退するものづくりを救済する「モデルケース」

 大手造船会社も今治造船も、造船不況をM&Aで乗り切ろうとした。なのになぜ政府から手厚い保護を受けてヒト・モノ・カネのすべてで有利だったはずの大手造船は没落し、今治造船は成長できたのか。違いは「官主導」と「民主導」にある。政府に守られた文字通り「護送船団」方式の再編と、造船会社が自らの判断と責任の下でリスクを取って進めた再編では、勝負にならないのは自明の理だ。

 大手の再編はリストラを目的としている。1+1を2ではなく1にするようなものだ。石川島播磨重工業(現・IHI)や日立造船は造船事業を分離し、ジャパンマリンユナイテッドを立ち上げた。しかし「撤退戦」だけに新たな投資には消極的で、再編したもかかわらず規模は縮小するばかりだ。一方、今治造船主導の再編は規模拡大を目指すもので、合併ごとに規模を拡大してきた。成長のための前向きのM&Aなので、設備投資に積極的なのも当然だ。

 国内のモノづくりは構造不況によって活力を失った。長らくその「原因」とされてきた円高が解消された現在においても、半導体や液晶テレビなど海外企業との競争に脱落する業界が後を絶たない。こうした業界でも官主導の再編が模索されたが、成果は上がっていない。衰退する業界を立て直すにはM&Aしかないが、民間主導でなければ失敗に終わる。今治造船のM&Aの歴史は、衰退する日本のモノづくりを復活させるための最良の「モデルケース」といえるだろう。

〇今 治 造 船 の 沿 革とM&A

M&A 内容
1901   創業
1942 愛媛県今治市、同越智郡一円の造船所が統合し、今治造船を設立
1958   敷地面積6万㎡の今治本社工場が完成
1970   同30万㎡の丸亀事業本部(工場)を着工
1974   初の大型タンカー「アストロペガサス」を建造
1976   香港代表事務所を開設
1979 今井造船と西造船を系列化
1982   神戸事務所を開設、累計500隻の建造を達成。
1983 岩城造船を系列化
1984   愛媛県西条市に60万㎡の用地確保
1986 幸陽船渠を系列化
1993   西条工場建設着手
1995   西条工場第一期工事船殻ブロック工場完成
1996   系列の今治国際ホテルがオープン
1997   累計1000隻の建造を達成
2000   西条工場二期工事大型船渠完成
2001 ハシゾウを系列化
2002   幸陽船渠、岩城造船の新ドックが完成
2005 新笠戸ドックを系列化
  渡邊造船を系列化し、しまなみ造船に名称変更
2007   アムステルダム事務所開設
2008 ハシゾウと西造船を合併し、あいえす造船設立
2012   累計2000隻の建造を達成
2013 合弁会社 MI LNGカンパニー設立
2014 幸陽船渠を今治造船へ統合
    資本金を300億円に増額
2015 多度津造船を系列化
2017   丸亀事業本部新ドック完成
2018 三井造船系の南日本造船から事業を承継(4月予定)

文:M&A Online編集部

この記事は企業の有価証券報告書などの公開資料、また各種報道などをもとにまとめています。